2017年11月3日金曜日

続・黒染強要事件から想像したこと


 前回は、高校の教員にやや同情的な論評を行ったが、その後、金髪の留学生にも黒染を強要したという報道があり、私の中で同情が唖然に変わりつつある。高校側からのコメントによれば、金髪や茶髪の生徒が混じっていると学校の評判が下がるからだとか。まあ、確かに、保護者の口コミというのはずいぶんいい加減で、

「あっこの学校な、ちょっと見に行ったらな、茶髪おったで~」
「ほんならうちの娘、行かすのやめとこ」

くらいの会話で評判が形成されるということもある。しかし、一方で、髪の色が異なる生徒の存在から、多文化共生が試みられているという評判だって立つわけであって、そのあたりの損得を考えれば大きなマイナスにはならないと思うのだが。生徒の人格・人権を無視するような暴挙とは、とても同じ天秤には載せられない。

 それよりも、高校の教員が規則を守らせることにこれだけ拘泥したことが恐怖である。現在、私は、人間の知能は集団を作る社会性哺乳類として進化し、推論の能力は、その集団の中で他者を操作するために都合よく進化したという見解に興味を持っている。集団の中で、他者を自分の思い通りに操作することができれば、生き延びるうえで有利なわけだ。

 そして、教師という職業に就く人は、政治家ほどではないが、他者を操作したい欲求が、比較的強いようにも思える。もちろん、すぐれた教師は、やる気のない生徒の学習意欲を高めたりするが、これも一種の操作なのである。学習しない生徒が、学習したくなるという、教師にとっても本人にとっても都合の良い状態になるように操作されているのだ。そして教師はそれに喜びを見出すが、言い換えれば、これは操作の欲求の現れである。「良い操作」と「悪い操作」というように簡単に分類できるわけではないが、強制による操作は、あまり望ましいとは言えない。さらに、悪いのは、強制に対して生徒が従わない時に、強制する理由をも忘れて、強制そのものが目的になってしまうことである。操作への熱意は、容易に強制への熱意に変化しうる。ましていわんや、この事件では、生徒自身に何の落ち度も責任もない。地毛が茶髪だから黒染を強要することは、「あなたの存在が悪」というメッセージを送っていることと同じである。強制だけが目的になると、そのような視点をとることができなくなってしまうのだろう。

 ちなみに、このブログの文章も、読み手の意見を操作することを目的として書かれている。私も教師の一人として、他者を操作することが好きなのである。強制はしてませんが。

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