2021年3月26日金曜日

法廷での後知恵バイアスについての論文を新聞記事で紹介していただきました (2)―知覚的後知恵バイアス

  川の水が濁っているかどうかの判断に、射流洪水が起きたということを知ったことによる後知恵バイアスが起きるのかどうか。当初は、裁判における司法判断に役立つ情報を提供ということが目的だったが、これを研究としてまとめるにあたって、意外に理論的な貢献があったということに気がついた。後知恵バイアスの理論的説明にはいろいろあるが、基本はHawkins & Hastie (1990)の因果モデル理論である。この理論は、予測が行われるときには因果律についてのモデルが心の中で構成されることを想定している。たとえば、米国の選挙においてトランプが勝つと予測したときは、岩盤支持層がいるからという因果モデルを構成する。ところがバイデンが勝ったという結果を知ると、トランプのやり方に危機感を抱いた人がやはり多かったという、バイデンの勝利の根拠へのアクセスが潜在的(無意識的)に行われ、その根拠からバイデンが勝つという因果モデルが構成される。これらの因果モデルの更新は潜在的に行われるため、トランプの岩盤支持層の因果モデルはいつの間にか抑制され、選挙前にそのようなモデルを心の中に抱いていたという記憶が想起できない状態になっているわけである。

 この裁判では、私が証言する前の公判において、射流洪水の30分前に水はすでに濁っていたという目撃者による証言があったようだ。この証言が後知恵バイアスによるものならば、因果についての記憶の更新として因果モデル理論を適用できる。しかし、事件を目撃しなかった人々の中にも、裁判の証拠となった30分前に撮影された川の写真を見て「濁りがある」という主張があったのである。この写真を見ただけで起きている後知恵バイアスは、因果モデルの記憶の潜在的な更新という想定では説明ができない。これは知覚的後知恵バイアスと呼ばれるものだが、意外にこのような研究はあまり行われていなかった。似たような例に、肺のレントゲン写真において肺がんの初期の結節影を発見できるかどうかというものがある。1980年代の調査では、このレントゲン写真が肺がん患者のものであると教えられると、結節影の検出が容易になり、知覚的(視覚的)後知恵バイアスの例とされている。この例は、s/n(シグナル/ノイズ)比の調節、すなわち、肺がん患者という情報が与えられると、わずかな結節影も見逃さないようにしようとする視覚的探索によって説明がなされる。確かに、この裁判の水の濁りの例でも、わずかな濁りを見逃さないようにという視覚的探索が行われたといえる。しかし、そこから「濁っている」と判断を下すのは、やはり後知恵バイアスなのである。

 前回の記事で述べたように、私たちの実験でも、「30分後に射流洪水が起きた」と教示された実験グループの参加者は、それを知らなかったとして判断をして欲しいと要請されているにもかかわらず、濁っていると判断する傾向にあった。因果モデルでは、予想外の結果を知ったときに、その情報がなかったときに構成した因果モデルを想起できないことによって後知恵バイアスが起きていると説明されているが、これを知覚的後知恵バイアスに適用すれば、結果の情報が与えられると、その情報がないときの知覚を想像できないことによって知覚的後知恵バイアスが生起していると説明できることになる。これは、私たちの研究による、新しい理論的発展なのである。

Hawkins, S. A., & Hastie, R. (1990). Hindsight: Biased judgments of past events after the outcomes are known. Psychological Bulletin, 107, 311-327. doi: 10.1037/0033-2909.107.3.311

 

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法廷での後知恵バイアスについての論文を新聞記事で紹介していただきました (1)

2021年3月18日木曜日

法廷での後知恵バイアスについての論文を新聞記事で紹介していただきました (1)

  前々回の記事で、私の論文について大学からプレスリリースがあったことを書いたが、それを産経新聞で取り上げていただき、317日付の夕刊にその記事が掲載された。

後知恵バイアスについて研究する大阪市立大の山祐嗣教…|裁判にも影響「後知恵バイアス」… 写真2/2|産経ニュース (sankei.com)

 実は、秋田真志弁護士より後知恵バイアスについての証言の依頼があったとき、お引き受けをしたあとで「10年前だったらおそらく断っていただろうな」と思ったことを記憶している。若いころは、心理学の実用面よりも、理論面、とくに当時は文化的適応についてもっと知りたく、自分でも比較文化研究をしたかったので、こういう仕事で時間を割かれるのは不本意と判断しただろうと思う。今回はお引き受けしたのだが、当初の動機はけっして褒められるものではなかった。学会等である程度責任がある仕事をするようになり、心理学が社会の役に立つことをアピールしなければという立場に身を置くようになったが故のお引き受けである。しかし、秋田弁護士のお話を伺い、刑事裁判における公正さの重要性を理解し(今まで、そんな常識を理解していなかったのかとお叱りを受けそうだが、実際に自分がかかわってみると、いかに自分が理解していなかったかを自覚できるものである)、当初は、後知恵バイアスを説明するという証言依頼だけだったが、私自身、これは実際に実験してみる価値があるという判断に至った。

  裁判の焦点の一つが、被告人が水の濁りから射流洪水を予見できたのかどうかである。検事や目撃者は「濁り始めている」という主張をすでに行っていた。実験は極めてシンプルで、裁判の証拠物ともされた実際に撮影された川の写真を見せて、実験参加者(大阪市立大学の学生)に濁りの度合いを判断させるものである。統制群の実験参加者には何も情報はないが、実験群には「この後に射流洪水(鉄砲水)があったが、その事実を知らないと仮定して濁りを判断」と教示が与えられた。当初の最大の問題は、どうやってこの実験を、実験参加者に「自然」に取り組んでもらえるものにするかであった。生態学的に妥当である実験に仕立てる必要があったわけである。学生が何のために水の濁りの判断を求められるのかと納得しなければ、この実験は不自然なものになってしまう。そこで私たちが採用したのは、「川の水の濁りは、射流洪水の予兆である」とする国土交通省が作成した水難事故防止パンフレットの利用である。私たちは、そのパンフレットを参加者に見せて、「水難事故防止キャンペーンにおいて、人々がどの程度を濁っていると判断するかというデータが少ないので実験に協力してほしい」とデセプションを行うことによって実験を行った。その結果、射流洪水があったことを知らされた実験参加者は、いくら「事実を知らないと仮定して」といわれても、統制群の参加者と比較して、水をより濁っていると判断したのである。後知恵バイアスが起きている証拠である。

  裁判の証言において、この結果が報告された。この実験結果は「濁っていない」ことの証拠にはならないが、検事や目撃証言における「濁っている」という主張が、後知恵バイアスの影響を受けている可能性が高いことを示唆している。判決文では、この実験結果を考慮したことは記されてはいないが、「濁っている」という証言は考慮されず、水の濁りからの予見可能性の責任は問われなかった。

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プレスリリースー法廷での後知恵バイアスを大学生 114 名の実験により実証!~法廷における判断に貢献~

2021年2月23日火曜日

渋沢栄一の剣は柳剛流?―邪剣という偏見を覆すことができるだろうか

  大河ドラマ『麒麟がくる』が終わり、十兵衛ロスになるかと思ったが、ロスに陥る間もなく『青天を衝け』が始まった。2回が終わったばかりだが、江戸末期の武州の雰囲気がとてもわかりやすく伝わってくる。渋沢栄一の生家が豪農だからというだけではなく、藍や絹などの商品経済が浸透しているのか、農民は比較的豊かそうで、手習いをしたり、剣術を習ったりする余裕があるようだ。とくに、農民や商人、あるいは博徒のような無頼が剣術を習うのは、幕府直轄地たる武州の風土であるらしい。

 そこで気になったのが、栄一の剣術の稽古のシーンである。剣道にしては珍しく、薙刀のように脛当をしている。また、脛を狙った打ちもあり、ドラマでは特に解説もないが、これは柳剛流ではないかと確信している。

 柳剛流は、私が知る限り司馬遼太郎の二つの小説において、邪剣として登場する。一つは、短編である『人斬り以蔵』の中で、武市半平太が、岡田以蔵の立ち合いを初めて見たときに、軽い嫌悪感とともに柳剛流のことを思い出すというエピソードである。半平太は、柳剛流を邪剣とし、「正法者は邪法使いを相手にせぬがよいといわれているが、立ち会ったものかどうか」と以蔵との立ち合いを思案している。もう一つは、『燃えよ剣』の中で、土方歳三がまだ武州で薬売りをしていたころに倒したある兵法家についてのものである。その兵法家は脛を切られているということで、下手人は柳剛流の使い手ではないかと兵法家の弟子たちが推測していた。しかし倒したのは歳三であり、小説では、歳三が武州の雑多な流派を取り入れていて修行していたからと理由が述べられている。

 柳剛流が邪剣とされていたのかどうかは史実としてはわからないが、剣術の中で、唯一脛を狙うということで、江戸で一流とされていた北辰一刀流の千葉道場や鏡新明智流の桃井道場では、相手にしないということがあったようだ。剣術には脛の防御法はなく、無理にそれをしようとすると、姿勢が崩れてしまう。また、18世紀半ばに武州蕨で生まれた流祖の岡田惣右衛門奇良が武士ではなかったということも邪剣説が生まれたことの理由であろう。武士以外の人間が、手段を選ばずにルールを無視して打つ剣法として見られていたのかもしれない。

 ところが、ちょっと調べてみるとわかるが、惣右衛門は、新陰流の流れをくむ心形刀流を学んで柳剛流を創始したようで、その後柳剛流からは、幕府講武所師範役となった松平忠敏など、多くの剣士を輩出しているようである。在野の剣でも、ましていわんやただの邪剣というわけでは決してないはずだ。また、同じように柳剛流で修業した渋沢喜作や尾高新五郎、柳剛流の幹部であった伴門五郎が上野の彰義隊に参加している。維新の政府軍相手に見事な剣技を見せた柳剛流の隊士もいたようだ。彰義隊の上野戦争では、薩摩を中心とした政府軍と彰義隊士が激突するが、薩摩示現流と柳剛流の剣戟をドラマで少しは描いてくれないかなと期待している。

2021年2月20日土曜日

プレスリリースー法廷での後知恵バイアスを大学生 114 名の実験により実証!~法廷における判断に貢献~

 先日、心理学の国際誌であるApplied Cognitive Psychologyに理論論文が採択され、オンラインではすでに掲載されている。 自然科学系の学術誌と比較するとインパクトファクターが見劣りするが、社会科学系の応用論文で、司法判断に貢献できるとして、プレスリリースしていただいた (ただし、諸般の事情により、大学のウェブサイトからは訪問できなくしている)。以下がその内容で、本ブログでも紹介したい(一部略)

大阪市立大学 法廷での後知恵バイアスを大学生114名の実験により実証!

 大阪市立大学大学院文学研究科の山 祐嗣教授は、しんゆう法律事務所の秋田 真志弁護士・川﨑 拓也弁護士と共同で、「裁判での証言のための後知恵バイアスの検証」の実験成果をまとめました。本研究は、ある水難事故の裁判で山 祐嗣教授が心理学の専門家として証言を求められた際、『裁判において、悲惨な事故等における責任の所在が争点となるときも後知恵バイアスが働き、人々はその事故が予測可能であったと思い込んでしまう』と仮定し、実際の射流洪水の予測可能性の認識における後知恵バイアスを、大学生114名の実験を基に調査研究したものです。

 本研究の成果は202129日に国際学術雑誌「Applied Cognitive Psychology」へ掲載されました。

~研究者からのコメント~

 このほか非常に重要な点は、後知恵バイアスには文化差があり、日本人を含めた東洋人において大きいという事実です。これはすでに私の文化比較研究において明らかにしています。日本の法廷ではとくに後知恵バイアスに用心しなければならないのかもしれません。Yama, H., Manktelow, K. I., Mercier, H., Van der Henst, J-B., Do, K. S., Kawasaki, Y., & Adachim K. (2010). A cross-cultural study of hindsight bias and conditional probabilistic reasoning. Thinking and Reasoning, 16, 346-371. doi: 10.1080/13546783.2010.526786

【掲 載 月】202129

【発表雑誌】Applied Cognitive Psychology (IF=1.83)

【論 文 名】Hindsight bias in judgements of the predictability of flash floods: An experimental study for testimony at a court trial and legal decision making

【著    者】山 祐嗣、秋田 真志、川﨑 拓也

【掲載URLhttp://dx.doi.org/10.1002/acp.3797

<研究の背景>

 人間の判断は、多くの認知バイアスの影響を受けやすいものです。意外な結果を知ったときにさえもそれを「予測できていた」と勘違いする後知恵バイアスもその一つです。このような現象はすでに知られていたにもかかわらず、実際の裁判において、後知恵バイアスが起きている可能性があることを示した実験に基づく議論はこれまで全くありませんでした。類似のものとして、あらかじめがん患者のレントゲン写真であるという結果の情報を与えられてから当該写真を観察すると、結節陰影を発見しやすくなるという知覚的後知恵バイアスがありますが、このような研究もまだ系統的には行われていません。

<研究の内容>

 本研究は、射流洪水による水難事故に係る裁判で、秋田 真志弁護士から心理学の専門家として証言を依頼された山 祐嗣教授が、その証言の根拠として行った、知覚判断と確率判断の後知恵バイアスの実験に関するものです。実験1では、実際に裁判で証拠となった写真を大学生に見せ、濁りの知覚判断と、射流洪水の確率を求めました。※ここで示されている写真(図1)は、実際に実験で用いられた裁判の証拠としての写真 (公開不可) ではなく、実験前の練習で用いられたものです。

左 1:実験1で用いたダミー写真

 射流洪水情報がない条件とある条件(その情報を知らないと仮定して判断するように求めた)を比較した結果、射流洪水情報がある条件のほうが、濁りが大きく、射流洪水確率が高いと判断され、明確な後知恵バイアスが示されました(図2)。

 ただし、濁りと射流洪水の因果関係は、レントゲン写真とガンの関係(がん患者のレントゲン写真には結節陰影がある)ほど人々に知られてはいません。そこで実験2では、実際に射流洪水が起こったという情報の有無以外に、濁りと射流洪水の因果関係を教示するグループとしないグループで比較しました。この因果関係が教示されると、少しの濁りも見逃すまいと知覚が行われたと見られ、因果関係を教示したグループの方がより濁っていると判断しました。


左 2:濁りの判断 (7段階評定) の結果

 この結果は、事故現場の目撃者に証言を求める際、たとえば検事が事故に関する因果関係の教示を行うと、それが誘導尋問になる可能性があることを示唆しています。このようなバイアスは、「結果を知ることによって以前の記憶が書き換えられる」として説明されてきましたが、本研究では、そのような記憶の書き換え理論を、「結果を知ることによって、結果を知らないときにどのように知覚するかを想像できなくなる」という修正した仮説を提唱し、後知恵バイアスの理論的発展にも貢献しました。


<期待される効果>

 本研究は、実際の裁判においても後知恵がいかに人々の判断にバイアスをもたらすのかということを示しています。さらに裁判だけではなく、医師や政治家・行政などの判断が評価されるときに、結果による後知恵が影響するということが人々に認識されれば、より適切な評価が可能になると期待されます。

2021年2月16日火曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』では本能寺の変の要因はどう描かれただろうか?

  いろいろとアクシデントがあった大河ドラマ『麒麟がくる』だったが、非常に面白かった。18日の記事で、本能寺の変の要因が『麒麟がくる』では、諸説ある中からどれが採用されるかを予想したが、あまり当たらなかった。「狡兎死して走狗烹らる」説は採用されなかったようで、佐久間信盛の追放は、ワンシーンがちらりと放映されたが、それで明智家中が動揺という記述はなかった。また、徳川家康の長男である信康の自害についても、それが自分に及ぶことを光秀が心配したような描写もなかった。まあ、18日の予想は惨敗ということである。

 ドラマで描かれたのは、信長による、光秀、正親町天皇、足利義昭への非道と、信長自身が自分を制御できなくなっている苦悩だった。「夜もゆっくり眠りたい。長く眠ってみたい」というセリフは、光秀を謀反に誘っているようにも聞こえた。そして、光秀を追い詰めた「将軍義昭を殺害せよ」という命令は、殺害が目的というよりは、光秀の忠心を試しているようだった。「私を好きだったら○○して」と無理難題をふっかけて恋人を困らせているのと何ら変わりはない。ドラマでは、母親の土田御前に愛されなかった信長には「人に喜んでもらいたい」という強い承認欲求 (実は心理学で、こういう用語があるのかどうかよくわからないのだが) があるという設定になっていたが、それがこのような忠心の確認としての非道となり、本能寺の変の要因の一つになっているようだった。

 また、信長近習の森蘭丸の、光秀への「上様に粗相をなさったな。無礼であろう」という激しい口調のセリフも妙にひっかかりがある。この背景はドラマでは描かれておらず、視聴者の想像を刺激しただけだが、蘭丸のような若い近習が功績がある重臣にこのような叱責が許されるということは、近習が文治派として信長政権の中で台頭しつつあることを示していないだろうか。ちょうど、結果的に豊臣政権を崩壊に導いた武功派 (加藤清正や福島正則) と文治派 (石田光成や大谷吉継) の対立が、信長の時代にも起きつつあるということとを想像させてくれるのである。豊臣政権では武功派の勝利を家康がちゃっかりと利用したが、信長政権では本能寺の変となった。

 こうして見ると、佐久間信盛の追放と信康自害の強要説は不採用だったかもしれないが、「狡兎死して走狗烹らる」説は、あながち的外れとは言えないかもしれない。近習が、走狗を烹るお手伝いをしているというわけだ。ドラマは歴史的事実 (これとて、確実というわけではない) に必ずしも忠実である必要はないが、非常にリアリティがある描き方で、見応えがあったと思う。

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2021年2月4日木曜日

森喜朗氏のあまりにも呆れた失言―ステレオタイプと女性への蔑視と敵意?

  失言は、スローな直感的システムとファストな熟慮的システムを想定する二重過程理論からみて興味深い現象である。いわゆる「本音」を構成するファストをスローが制御できなくなって、ポロリとやってしまうのが失言の代表的なものであろう。ファストには人間としての欲望が渦巻いているのが当然なので、ファストをスローが制御しながら生きている人間に対して、「裏表がある人間」という嫌悪感を抱くようなことは、私自身はあまりない。人間はある程度は裏表があって当然であり、不道徳な欲望を消し去ることができた聖人は別として、多くの普通の人たちは、社会で受け入れられにくい欲望を言動に直結させないようにスローによって制御しているのが現実だからである。しかし失言は、この制御不能の結果であり、それが公的になれば看過できないのは当然であろう。

 元首相で東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長である森喜朗氏は、失言が多いことで有名である (今や、海外にまで知れ渡ってしまった)。スピーチが上手いと評されてもいるが、それは、後援会やある特定の団体などにおけるその場でのウケ狙いが成功してきたためだろう。聴衆に迎合したり、ご機嫌をとったり、あるいはその場でのウケを狙ったりしての発言は選挙での集票に有効かもしれない。しかし、ウケはその集団内だけでのことであり、外部に漏れると失言ということになる。代表的な例が、20005月の神道政治連盟国会議員懇談会における「日本は神の国」失言だろう。森氏が、このような「日本は神の国」という考え方や「神とは何なのか」という定見をもっていたかは定かではないが、少なくともこの状況では、森氏自身は「ウケる発言」と考えたのであろう。

 そういう意味で森氏のこれまでの失言は、比較的害が少ない「状況依存型」と名付けたい。しかし今回の、

「女性っていうのは競争意識が強いんです。誰か1人が手をあげて言うと、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。前の発言に関連したものではなく、思いのままに」

は、森氏のファストにおける本音をスローが制御できなかった例である。あるいは、男性がヘゲモニーを示している集団で、これを言えば「ウケる」とも考えていたのかもしれないが、「ウケる」どころか受け入れがたい森氏の本音が十分に伝わったという点で「制御不能型」と呼んでおこう。

 この発言には2つの大きな問題がある。第一は、「女性っていうのは競争意識が強いんです」という、どうしようもないステレオタイプ的視点である。競争意識に性差があっただろうか? 仮に、百歩譲って、女性の競争意識の平均値が男性のものよりに高いとしても、競争意識が高い男性や低い女性も多く混在しているはずで、このようなステレオタイプ化は、有害なバイアス以外の何物でもない。

 第二は、この文言の背景にある女性への強烈な蔑視と敵意である。おそらく会議などで「対抗するように思いのままに発言」する人は男性にも多いと思う。しかし、女性の発言のみについて「競争意識が強いから」と述べて迷惑千万と断言する態度は、少なくとも平等的人権意識をもっている人間には看過できないものになる。端的にいえば、「女は黙っとれ」というファストからの強烈なメッセージなのである。

 こういう人間が文教族として日本の教育に大きな影響を持っていたと思うとぞっとする。また、組織委員会は森氏をトップのままにしておくのだろうか。これでは、組織委員会だけではなく、日本人全体が彼の態度を容認していると、世界が認識すると危惧するのだが。

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2021年1月24日日曜日

そろそろ「老害」という表現を止めませんか? (2)―長老支配についての忘備録

  長老支配とは、高齢の政治家によって支配される政治体制を指すが、政治だけではなく、学界やマスメディア、伝統芸能、芸能人、スポーツなどにおける年長者が支配している体制をも含めている。これは古い習慣が単に残っているだけなのだろうか。ちょっと気になって調べてみるといろいろと興味深い要因が浮かび上がる。

 私自身は、長老が尊敬されるとすれば、それは知識の蓄積と伝承がより重要になった時代になってであって、知識より体力が優先される時代や常に飢餓の心配があって「働かざる者食うべからず」のような時代には、身体が弱くなって生産性が低い老人は尊敬されていなかったと思っていた。日本の各地に残されている姥捨ての伝承がそれを物語っている。

 ところが、狩猟採集民の民族誌的な研究から、年長者がかなり崇敬されているということが推定されているようだ。狩猟採集民といえども体力勝負だけではなく、伝統的な知恵・知識が貴重なのである。動植物についての知識と狩りの方法、さらにたとえば旱魃に陥ったときにどこに移動すればよいかなど、年長者の知識蓄積と世代伝達能力は私たちが想像するよりも、はるかに貴重なようである。

 さらに、このような環境では、医療が未発達で多くの人々が若くして命を失う。そうした状況で、年長者は長寿であるという理由だけで尊敬される。病気にならず、生き延びるための知恵を持っているかもしれず、また、長寿のためのまじないなどに精通している可能性が高い。さらに、概してこのような伝統的社会では、呪術や儀式などが重要分野となるが、それらの知識の伝承に長寿者は不可欠なのである。

 長老支配の形成にこのような要因があるならば、年長者への崇敬は、狩猟技術の革新や宗教の萌芽が見られたおよそ5万年前の文化のビッグ・バンのころから本格的になったのかと思う。しかし、もう一つの可能性として、生殖年齢を過ぎた後の長寿と関係しているとする見解もある。この長寿は、文化伝達が非常に重要なヒトにのみ見られる現象(狩りのスキルをかなり学習に依存しているシャチにも見られるそうだが)で、最も近縁のチンパンジーでさえ観察されない。ヒトにおいては、生殖を終えた祖父母の文化伝達における役割が大きく、年長者が崇敬されるようになったというわけだ。

 ただし、役立つ知識が年長者ほど蓄積されるというのは、社会や環境が比較的安定した状態に限られるようだ。変化が大きいと昔の知識が役に立たなくなる。現代は、科学の発展が異常に速く、知識を次々に更新していないといけないが、このような状況は人類史においてかなり稀なことである。このような状況では、新しい知識を取り入り入れることが苦手な高齢者は、残念ながら崇敬されない。だからこそ「老害」という呼称は止めるべきなのだ。弱者への差別的侮蔑語以外何物でもない。

 

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