2018年2月11日日曜日

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』と英国人のペシミズム

 後期の授業と試験の採点が終わり、ちょっと気持ちにも余裕が出て、先日、カズオ・イシグロの作品の映画化されたものの一つである『わたしを離さないで』(Never let me go)を見た。小説も読まずに映画だけで論評するのはおこがましいかもしれないが、イシグロ作品についてよく言われる「記憶」がテーマというよりは、壮大な思考実験と英国人のペシミズムが反映された映画という印象だった。

 まずとてつもない設定に度肝を抜かれる。英国のボーディングスクールで学んでいると思われた子どもたちは、実はみなクローンで、そのスクールのような施設を出たあとは、臓器提供者となる運命にある。ヒロインのキャシーもその一人で、その施設には、トミーという好きな男の子がいたが、同級生のルースに彼を奪われてしまう。その状態で施設を出て、今度は大人として臓器提供の待機施設に移っていった。提供者になると、何回かドナーとしての摘出手術を受け、徐々に体力が落ちて、4回目にはほぼ亡くなってしまう。映画では、それが、’completion’という用語で表現され、彼らの会話でもこの言葉が使われていた。物語は、ルース、トミーがcompleteし、ついにキャシーにも1回目の提供の命令が来たというところで終わっている。

 ノーベル文学賞受賞理由の評価として、「世界と繋がっているという我々の幻想に隠された深淵を偉大な感情力で明るみにした」ことがあげられているが、私もまさにその通りだと思う。映画を見終わった後、自分の人生は彼らのものとは違うということが幻想ではないかという思いを、消し去ることができない。

 サイエンス・フィクションとしてもおそろしく優れていて、このような架空の状況設定でクローンがどのような精神状態を保ち、どのような行動をとるのかということをシミュレートさせる壮大な思考実験であろう。彼らのベースには深い悲しみが横たわるが、その現状に対して、行動としての反乱を起こすとかということはしない。反乱はあくまでも心の中だけで、表面上は運命を受け入れている。この思考実験結果は、たとえばエミリー・ブロンテの『嵐が丘』に表現されるようなペシミズムを彷彿させる。どうしようもない悲惨な境遇も、それを受け入れ、またその受け入れに、人間としてのリアリティがあるのである。安直な言い回しを用いれば、「英国人はつねに不満をいう、しかし何も変えようとしない。一方、アメリカ人はいつも満足しているが、つねに何かを変えようとしている」に表現されるような、アメリカ人と対比される英国人のメンタリティなのかもしれない。

2018年2月1日木曜日

大河ドラマ「西郷どん」と「翔ぶが如く」


 2018年の大河ドラマ「西郷どん」がスタートを切った。なかなかおもしろくて、日曜日を楽しみにしているのだが、現時点での私の個人的な感想は、「何かが足りない、でも何かが余っている」である。この評価が妥当かどうかという自信はないが、どうしても比較してしまうのが、1990年の「翔ぶが如く」である。

 「翔ぶが如く」はドラマも原作もともにすばらしかった。司馬遼太郎の歴史小説は、歴史家から見ると誤りもあるのかもしれないが、どれも登場人物が設定された時代背景の中でとても生きいきと描かれており、後続の小説家がこれを超えたものを書こうとすると、どうしても二番煎じか、何かを付け足さなければいけない。残念な事件に、池宮彰一郎の「島津奔る」が、司馬遼太郎の「関ケ原」との類似の問題で絶版になったことがある。「島津奔る」はなかなかおもしろかったが、関ケ原からの撤退の場面が「関ケ原」と酷似していたのだ。私も読んだときにそう感じた。司馬遼太郎を超えようとすると難しいのであろう。「西郷どん」の原作の林真理子も、よくこの困難に挑んだものだ。

 「翔ぶが如く」は、俳優たちもすばらしかった。西田敏行の西郷、鹿賀丈史の大久保は言うまでもないが、実力派俳優が綺羅星のごとく魅力的に役割を演じ、みごとな群像劇にもなっていた。非常に印象に残っているのは、村田新八を演じた益岡徹である。益岡さんは、ちょっと気弱な中年男を演じさせたら絶品だが、「翔ぶが如く」では、颯爽として、人情に厚く、飄々とした薩摩隼人を見せてくれた。幕末の薩摩にこういう志をもったこんな雰囲気の下級武士がおそらく存在したのだろうという、歴史的リアリティを感じさせる演技だった。また、西南戦争の薩摩軍幹部の中の唯一の文官として、軍服ではなく、フロックコートにシルクハットで出陣したが、あのカッコよさにしびれてしまった記憶がある。西南戦争最後の城山では、洋行中にマスターしたアコーディオンを弾き、西郷の死において「ああ天なり」とつぶやき、そして自刃した時は、あれだけ時代を読めていた人物がなぜここで命を落とさなければならなかったのかと、かなり目頭が熱くなったのを覚えている。

 2018年大河ドラマ「西郷どん」に、「翔ぶが如く」に出演した俳優が出演している。ナレーションの西田敏行と島津斉興の鹿賀丈史をはじめ、前回は画家役だった雷竜太が調所広郷、大村益次郎役だった平田満が大久保利世と、当時を思い出しながら見るのも楽しい。平田満は、有村俊斎の一味に暗殺されたおそろしく偏屈でとりつくしまもない大村を演じていたが、今回の大久保利世では、全く違う顔を見せている。

 何かが足りない、でも何かが余っている。この直観をもっとうまく言葉で表現できたらいいのだが、現時点での評価は、1990年の「翔ぶが如く」と比較した上でのものである。「翔ぶが如く」を超えるのかどうかは、今後の展開次第だろう。

2018年1月27日土曜日

iPS細胞の研究不正について―尾木直樹氏の発言への違和感


 研究不正がまた起きてしまった。iPS細胞の研究で、京都大学の助教による捏造と改ざんである。小保方晴子氏の事件で、研究者には、不正が良くないことが倫理的にも理解され、不正を行うと社会的にも制裁を受けるということが肌で感じられたと思えるのだが、同じような事件が起きて非常に残念に思う。

 この事件について、教育評論家の尾木直樹氏がコメントを行っているが、研究不正者本人を非難するというよりも、研究現場の現状について問題点の指摘というニュアンスが強い。曰く、ポストに任期つきが多いこと、研究費の獲得がたいへんであることなどなど。しかし、前回の記事で書いた大阪大学の入試ミスについて、同氏がツイッターで強烈な非難を行っていることと比較すると、ものすごい違和感を抱いてしまう。1970年代や80年代に、非行や犯罪にはしる青少年が受験競争の被害者のごとく語られた時期があるが、今となっては的外れと思われるそのような論評を彷彿させる。

 そもそも入学試験のミスは、意図的なわけではなく、あくまでヒューマンエラーである。それに対して、研究不正は確信犯なのだ。また、被害を比較すれば、入学試験のミスについては何人かの不運な受験生で済んでいる。もちろん犠牲となった受験生には同情するが、前回の記事でも述べたように、「人生が狂う」ほどのことはない。しかし、今回のiPS細胞研究不正は、使われた研究費だけではなく、その成果を信じて後続研究を始めようとした研究者、その成果を医学的治療に適用した研究者たちに、大混乱を起こしている可能性がある。また、その大混乱によって、研究の進展が一時的に停滞してしまえば、たとえば10年後に研究の進歩によって命が助かっていたはずの多くの人たちが、治療の完成が間に合わなかったとして死ななければならないということもありうるわけである。

 入学試験ミスの被害者は目に見える。しかし、研究不正による被害者は想像しにくいし、どのくらいの数になるかは確率の問題である。それで、「わかりやすい」という理由で、非難の舌鋒が前者に向けられやすいとすれば、「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計」という恐ろしい言葉を想起させる。これは、ソビエト連邦の独裁者であるヨシフ・スターリンの言葉とされているが、実際は、「西部戦線異状なし」で知られている作家のエーリヒ・マリア・レマルク、あるいはホロコーストにかかわったとされてイスラエルで処刑されたアドルフ・アイヒマンの言葉ともいわれている。メディアで取り上げられたりすると、どうしても悲劇的な「一人の死」になりやすい。それで人々に何かを訴えるのも大切かもしれないが、それによって「百万人の死」が覆い隠されてしまったりすると恐ろしい。

2018年1月25日木曜日

大学入学試験の出題ミスについて

 今年、大阪大学の入学試験においてミスがあり、ミスだけではなく、予備校に指摘された後の対応が批判されている。確かにこの対応については問題だろうとは思うが、メディアをはじめとする世間一般が、どうして入学試験のミスについてこれだけ寛容さがないのだろうか。

 私の領域は心理学なので、あまり出題にかかわることはないが、それでも大学院の入学試験やその他諸々の入学試験の負担は大きい。文学部という部署に属ずると、傍から見ていて気の毒なのは、英文や国文の教員である。作問の委員になるとその年は大きな仕事は諦めることになる。

 どの業界でもそうなのかもしれないが、ここ20年ほどで大学教員は著しく多忙になっている。最も大きな理由は、人員の削減であろう。それによって学内の仕事、委員会や教授会等の書類つくり、教員評価や予算申請・執行・報告等の書類つくり、備品等の管理などの仕事が大幅に増えている。それによって、本来の職務である教育や研究がかなり支障をきたしている状態である。この問題については、このブログの最初の記事である『論文発表数の減少』で述べている。さらに、学外の重要な仕事として、学会の業務、論文の査読、学振の科研や特別研究員の審査などがあるが、これらが手抜きになりやすい。

 この状況で、入学試験問題におけるミスをなくせという圧力が強いと、もうとんでもないことになる。一般に、ゼロリスクの追及はとてつもなくコストを要し、効果に見合わない努力を課せられることになる。これだけの量の入試があって、ミスをゼロにするのは事実上不可能だが、ミスがあるたびに確認作業がより厳格化されて、ますます時間を取られてしまうというのが現状である。この問題について、有機化学論文研究所というブログにおいて『大阪大学入試問題ミス:原因と入試の在り方について考える』という記事があり、私も大いに賛同した。外注という選択肢は現実には難しいかもしれないが。

 当初の問題にもどって、この入試ミスに対する非寛容さはなぜだろうかを考えてみたい。メディアでは、ミスによって不合格とされた受験生の人生が狂わされると主張する。しかし一方で、AO入試や小論文の記述式の場合は、採点者のちょっとした主観によって合否がかなり大きく左右されるのが現状だ。採点者の主観で不合格とされた受験生についてはどう考えるのだろうか。そもそも、一番大きな問題は、不合格によって人生が狂うような教育システムあるいは社会システムなのではないだろうか。不合格を取り戻すことができるシステムに変えていくことはそれほど困難とも思えない。また、私は、現実にも、希望大学に不合格になった程度でそれほど人生が狂ってしまう社会とはいえなくなっていると思う。今は、どこの大学でも、本人の努力次第で良い教育を受けることができる。「人生が狂う」というのはすでに共有幻想であって、メディアが大学を攻撃するときの口実のような気がする。

 私自身は、大学が抱えている最も大きな問題は、論文の減少に見られる研究活動の不活発化と、学生の就職活動による4年生時の教育の形骸化だと考えている。入試のミスへの圧力や不寛容は、この問題の解決に完全に逆行することになると思う。

2018年1月21日日曜日

韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)って何?


 触れると火花が散りそうな話題はできるだけ避けたいのだが、2015年の慰安婦問題日韓合意への韓国側追加要求については、リベラルとされている人たちの中にも驚きと呆れが生じている。文在寅大統領も、国内の支援団体の意見を考慮してのことのようだが、この団体の代表的なものが韓国挺身隊問題対策協議会(以下挺対協)であろう。

 私は、以前からこの団体に不信感を抱いていた。掲げている理想は高邁である。軍隊に従軍慰安婦などあってはいけないし、やむをえずそれに従事した女性たちを支援していこうという主張には私も同意できる。問題は、それを強烈な反日運動に結びつけている点である。もちろんある程度結びついてしまうことは仕方がない。しかし、本当に被害者の女性たちの側に立っているのかという点に不信感があるのだ。

 著書『帝国の慰安婦』で告訴されて有名になった朴裕河(パク・ユハ)氏だが、彼女が2006年に著した『和解のために―教科書・慰安婦・靖国・独島』は、すばらしい著作である。韓国(あるいは北朝鮮)の人々が、どのように日本の過去を許していけるのかを問うたもので、私は、「日本人だから」という理由からではなく、「許し」というのはこうあるべきだと共感した記憶がある。人類は残念ながら、多くの残虐行為の歴史を抱えているが、それをどのようにして宥恕するかという叡智も蓄積してきた。その叡智が活かされなければ、1990年代にルワンダで起きたツチ族とフツ族の対立のように、復讐の連鎖とジェノサイドが起きる可能性があるのである。

 宮沢内閣のときの「河野談話」に基づき、1994年に村山富市内閣総理大臣によるお詫びの表明、およびそれによる「女性のためのアジア平和国民基金」設置は、和解の大きなチャンスだったと思う。しかし、このときの挺対協の抵抗は根強かった。その中で、これは問題だと思えるのが、このときの見舞金を受け取った元慰安婦への暴言である。2000年から代表になった伊貞玉(ユン・ジョンオク)は、「(日本側が)罪を認めない同上金を受け取れば、被害者は自ら志願して赴いた公娼となる」という発言で、受け取った元慰安婦たちを脅しあげたのだ。このような脅しがあれば、受け取ろうと思っていた元慰安婦たちも断念せざるを得ないだろう。こういう発言が、本当に彼女たちのためになるだろうか。被害者がどのようにして安寧を得るかということを考えれば、とても被害者の側に立っているとは思えないのである。

 挺対協への支持者は韓国にも日本にも多い。この理由として、隠れた戦争犯罪を追及したいという人道主義に賛同したいという点は理解できる。しかし、被害を受ければ倍返しというように、徹底的に加害者を叩きのめすのが痛快だという理由で支持をしているならば、その点は切に改めて欲しいと思う。実際、何か発言しようとして、朴裕河氏のように挺対協に攻撃されたらたいへんなことになるということで、口をつぐんでいるサイレンスマジョリティも韓国人の中には多いということも忘れてはいけない。

2018年1月17日水曜日

推論研究のゆくえ (2)—メンタルモデル vs 新パラダイム


 おそらく心理学者の中でもごく少数の人たちにしか知られていないのではないかと思うが、最近、新パラダイムという呼ばれる潮流が広がりつつある。これは、演繹推論における規範、すなわち何を正しい推論とするかという基準についての主張であり、命題論理学と述語論理学を規範としてきた伝統に対するチャレンジなのである。これについて、金子書房から2015年に出版された、『認知発達研究の理論と方法』の中で、私が「推論研究の新パラダイム」という章で概説をしているので、それをまとめてみよう。

 前回の記事でも触れたが、新パラダイムは、条件文についての規範理論をめぐってメンタルモデル理論と対立している。メンタルモデル理論では、下の表の中の命題論理学を規範としており、「もしpならば、qである」という条件文の真偽の取り決めについて、pとqの真偽の組み合わせで、pが真でqが偽のときのみを条件文を偽とし、それ以外の場合を真としている。今は教えられていないようだが、私が高等学校で学んだことである。メンタルモデル理論でも、「もしpならば、qである」という条件文が真だとすれば、pもqも真である状況以外に、pが偽でqが真、pもqも偽という可能性があるということを理解することが規範とされている。

 しかし、こうすると、「もしネコが爬虫類ならば、トンボは植物である」のような意味がわからない条件文が、pもqも偽だということで真になる。この命題論理学に異を唱えたのが、ド・フィネッティで、彼の理論では、表にあるように、qが偽である場合をカウントせず、「空」(void)という値が与えられている。人間がド・フィネッティの理論のように条件文を解釈するということを、新パラダイムでは、条件文の確率推論の研究で示している。円またはダイヤが描かれている、黄色または赤色のカードが、それぞれ以下の枚数あることを想定してほしい。

 黄色の円:1枚
 黄色のダイヤ:4枚
 赤色の円:9枚
 赤色のダイヤ:16枚

そこから任意の1枚を引いたとき、「もしカードが黄色ならば、そのカードには円が描かれている」という条件文が正しい確率はどうなるだろうか。命題論理学の取り決めに従えば、真であるカードは、黄色の円、赤色の円、赤色のダイヤであるので、(1+9+16)/30、つまり約87%になる。しかし、多くの人はカードが黄色の場合のみを考慮した確率、すなわち、1/(1+4)という解答が適切だと思われないだろうか。実際、後者のほうが多いのである。

 メンタルモデル理論が、なぜこの命題論理学的解釈に固執するのかわからない。これを放棄しても、メンタルモデル理論がもつ本質的部分、すなわち、「意味論的手続きによってモデルを生成する」という仮定が反証されるわけではない。おそらく、この規範理論論争で敗れたとしても、まだまだ生き残っていくのではないだろうか。

p
q
p → q
命題論理学
p → q
de Finetti
真
真
真
真
真
偽
偽
偽
偽
真
真
空
偽
偽
真
空

2018年1月6日土曜日

推論研究のゆくえ (1)―メンタルモデル雑考


 私が一章を書かせていただいた、Routledgeからの、”The Routledge International Handbookof Thinking and Reasoning”が手元に届いた。私が推論研究に本格的に取り組むようになったのは、博士課程に進学した1985年あたりからである。当時、推論研究のアプローチとして、ピアジェ以来の人間の論理性を強調した心理論理アプローチ、意味論的手続きによってモデルが形成されるとするメンタルモデルアプローチ、人間の推論がいかにバイアスの影響を受けやすいかを示すバイアスアプローチが主流であり、推論について書きものをするときは、まず冒頭でこれらの紹介をしたものである。

 とくに、メンタルモデルの理解については、ブログ村心理部門のライバル(?)でもある、「心の風景」のK先生の翻訳されたP. Johnson-Lairdの2冊の著書、『メンタルモデル』と『心のシミュレーション』がたいへんありがたかった。前者は、メンタルモデル理論そのものの、後者は、認知心理学から認知科学への足掛かりとしての勉強になった。心理論理アプローチとメンタルモデルアプローチの対立は、当初は、1970年代の、命題対イメージ論争のようなものかなと思っていたのだが、それが間違いだったということに、この2冊の訳書によって気づかされた記憶がある。

 バイアスアプローチが、バイアスを生む処理システムと、バイアスを修正する処理システムを仮定する二重過程理論に受け継がれ、心理論理アプローチが心理論理のもととなる自然演繹とは何なのかという問題にぶち当たったまま停滞しているのに対し (中心的主唱者だったL. Ripsは、もうこの研究をしていない)、メンタルモデルは、P. Johnson-Lairdと、R. Byrneらの弟子たちがそれを発展させている。当初、苦手な分野とされていた確率推論にも、可能世界を複数並置することでモデル表現を可能にし、また、非単調論理を導入してアブダクションに適用させている。さらに、モデルをよりダイナミックに捉えて、モデル用いた心の中のシミュレーションにも力点を移動させている。Routledgeのハンドブックでも、GoodwinとKhemlaniとの共著で、これらの解説が記されている。

 この長命の秘訣は何なのだろうか。反証されにくいというのは、科学的理論の欠点なのかもしれないが、意味論的モデル生成というアプローチとしての根幹をゆるぎなくおいておき、そこから導かれるさまざまな主張について、たとえ反証されても、小修正で立ち直れるという強みがあるのだろう。

 現在、メンタルモデル派と新パラダイムと呼ばれる推論研究の一派(私はこちらに属している)と、条件文解釈をめぐって論争中である。自分のひいきという点もあるかもしれないが、どちらかといえば新パラダイム派が優勢のようである。しかし、メンタルモデル理論は、これで負けを認めたとしても、あくまで局地戦での敗北として、また新たに改良・修正を加えて、条件推論の主要理論として生き残ると思う。これらの論争については、別の機会に。