2018年1月25日木曜日

大学入学試験の出題ミスについて


 今年、大阪大学の入学試験においてミスがあり、ミスだけではなく、予備校に指摘された後の対応が批判されている。確かにこの対応については問題だろうとは思うが、メディアをはじめとする世間一般が、どうして入学試験のミスについてこれだけ寛容さがないのだろうか。

 私の領域は心理学なので、あまり出題にかかわることはないが、それでも大学院の入学試験やその他諸々の入学試験の負担は大きい。文学部という部署に属ずると、傍から見ていて気の毒なのは、英文や国文の教員である。作問の委員になるとその年は大きな仕事は諦めることになる。

 どの業界でもそうなのかもしれないが、ここ20年ほどで大学教員は著しく多忙になっている。最も大きな理由は、人員の削減であろう。それによって学内の仕事、委員会や教授会等の書類つくり、教員評価や予算申請・執行・報告等の書類つくり、備品等の管理などの仕事が大幅に増えている。それによって、本来の職務である教育や研究がかなり支障をきたしている状態である。この問題については、このブログの最初の記事である『論文発表数の減少で述べている。さらに、学外の重要な仕事として、学会の業務、論文の査読、学振の科研や特別研究員の審査などがあるが、これらが手抜きになりやすい。

 この状況で、入学試験問題におけるミスをなくせという圧力が強いと、もうとんでもないことになる。一般に、ゼロリスクの追及はとてつもなくコストを要し、効果に見合わない努力を課せられることになる。これだけの量の入試があって、ミスをゼロにするのは事実上不可能だが、ミスがあるたびに確認作業がより厳格化されて、ますます時間を取られてしまうというのが現状である。この問題について、有機化学論文研究所というブログにおいて『大阪大学入試問題ミス:原因と入試の在り方について考えるという記事があり、私も大いに賛同した。外注という選択肢は現実には難しいかもしれないが。

 当初の問題にもどって、この入試ミスに対する非寛容さはなぜだろうかを考えてみたい。メディアでは、ミスによって不合格とされた受験生の人生が狂わされると主張する。しかし一方で、AO入試や小論文の記述式の場合は、採点者のちょっとした主観によって合否がかなり大きく左右されるのが現状だ。採点者の主観で不合格とされた受験生についてはどう考えるのだろうか。そもそも、一番大きな問題は、不合格によって人生が狂うような教育システムあるいは社会システムなのではないだろうか。不合格を取り戻すことができるシステムに変えていくことはそれほど困難とも思えない。また、私は、現実にも、希望大学に不合格になった程度でそれほど人生が狂ってしまう社会とはいえなくなっていると思う。今は、どこの大学でも、本人の努力次第で良い教育を受けることができる。「人生が狂う」というのはすでに共有幻想であって、メディアが大学を攻撃するときの口実のような気がする。

 私自身は、大学が抱えている最も大きな問題は、論文の減少に見られる研究活動の不活発化と、学生の就職活動による4年生時の教育の形骸化だと考えている。入試のミスへの圧力や不寛容は、この問題の解決に完全に逆行することになると思う。

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