ロシアがウクライナ侵攻を始めて4年半が経つが、膠着状態に陥ってから、北欧・東欧の国々がロシアの侵攻に備えるようになった。私自身、当初は経済的に弱体化したロシアにそんな余裕があるはずもないので、なぜそこまでナーバスになるのかちょっと不思議だったが、この戦争の本質を考えると、その可能性はないとは言い切れなくなってきた。
今世紀に入って戦争やジェノサイドがほぼ消滅したとき、2011年に出版された書籍の中でS. ピンカーは、ユートピア・イデオロギーが共有されにくくなったことを消滅の要因として挙げている。つまり、「大東亜共栄圏を築けば東洋は平和になる」や「ユダヤ人がいなくなればヨーロッパは清らかになる」のようなユートピア・イデオロギーを人々が信じにくくなって戦争が起きにくくなったわけだ。
ところが、専制国家の独裁者は、このイデオロギーをナラティヴによって復活させた。自らのカリスマ性を高めるのに都合がよいのだろう。中国では、習近平が「中華民族の偉大な復興」というユートピア・イデオロギーを掲げている。偉大なはずの中華民族は西洋人や日本人によって屈辱を受けてきたが、強くなった今がそれを晴らすときであり、これは歴史の上でも正義であるというわけだ。ロシアでも、プーチンは「偉大なロシアの復興」というユートピア・イデオロギーを人々に植えつけている。つまり、ロシアは第二次世界大戦でナチス・ドイツを破った正義の国であり、また、ロシア人とウクライナ人は歴史的・精神的にも一つの民族であるにもかかわらず、ウクライナにはネオナチが入り込んで反ロシア的な動きがある、というのがウクライナ侵攻の理由になっている。ウクライナとの統一を果たしてネオナチを追い出せば、偉大なロシアのユートピアが生まれるというわけだ。
ところが、ウクライナにおいて戦況が膠着したり危うくなったりすると、このナラティヴ通りの展開通りにならなくなる。このナラティヴに縛られてしまうと、独裁者プーチンは自らの地位だけではなく、命までも危うくなってしまう。今のままでのウクライナとの停戦などとんでもないわけだ。そうすると、このナラティヴを維持するために、ネオナチやそれを支援するNATO諸国という悪の敵対者に対して、何らかの反撃を試みることが必要になってくる。ロシアと隣接する北欧・東欧諸国はそれを恐れているわけである。とくに、旧ソビエト連邦から真っ先に独立したバルト三国は、偉大なロシアの裏切り者として目の敵にされやすい。彼らがロシア侵攻を恐れるのも十分に納得できる。侵攻ではなかったが、プーチンによるエトロフ島の訪問も、彼のナラティヴを維持するための戦略の一つだろう。
現状ではロシアはウクライナ以外の国に進行する余裕がないはずというのは、あくまで客観的な見方で、ナラティヴに縛られるとその客観視ができなくなる。太平洋戦争を引き起こした日本がその例だ。中国との戦争が泥沼化した中で他国を侵略する余裕などなかったはずが、大東亜共栄圏のナラティヴによって、米国を攻撃すると同時に、マレーシア、フィリピン、インドネシアに侵攻した。このナラティヴを放棄するために、日本は周辺国に大きな被害を与えると同時に、多大な犠牲を伴ってしまった。ロシア、あるいはプーチンは、この壊滅の道を辿るのだろうか。「自国の行動こそが正義であり歴史的必然である」という強力なナラティヴを国内外に定着させることで、国内の結束維持と国際的な影響力拡大を図っている国に対しては、彼らのナラティヴを理解して様々な可能性に備えることは重要だろう。
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