2011年にS. ピンカーによる”The Better Angels of Our Nature” (邦訳『暴力の人類史』) が出版され、その中で彼が21世紀を「新しい平和」と呼び、世界において戦争とジェノサイドは消滅し、人権意識の高揚とともに殺人などの暴力が減少していることを示しているのを読んだとき、私はもう戦争は起きないと思ったのだが、その予想は大きく覆されることになった。ピンカーは、ユートピア・イデオロギーの共同幻想が崩壊したことを「新しい平和」の要因の1つにあげているが、私は、2023年4月1日の記事でロシアにおいてそれが復活していると指摘した。
このようなイデオロギーを支えているのはナラティヴである。拙著『生きにくさはどこからくるのか』でも述べたが、ナラティヴは小説などによって形成され、これまでずいぶんと人々の人権意識の高揚に貢献してきた。たとえば、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』によって当時の人々の共有されたナラティヴは、奴隷制度や黒人差別反対のうねりを作り出した。ナラティヴは共感や感情と結びつきやすく、論理的な科学的推論などよりもはるかに人々を動かす力があるのだが、それは諸刃の剣であって、人々を狂気に走らせる力ももっている。
とくに共感は、黒人奴隷をはじめとする差別される側に向けられると人権意識の高揚につながる。しかし、共感を向けられた対象と敵対する人々には、大きな憎悪と攻撃性が向けられる。対象が差別される側ならば差別する側への憎悪が生まれて、社会のモラルは向上するかもしれない。しかし、たとえば警察から目をつけられた反社会的集団に共感が向けられると、警察への憎悪に結びついたりする。反社会的集団視点でのナラティヴは、警察を抹殺すれば世界に平等と平和が訪れるというユートピア・イデオロギーを作り出すわけだ。
それを明確に指摘しているのが、J. ゴットシャルである。彼の著作、”The Story Paradox” (邦訳『ストーリーが世界を滅ぼす』) では、ストウ夫人の例のように、ナラティヴのポジティヴな面も述べられているが、それと同時に、危険な側面も指摘されている。ナラティヴは、共感などの感情に訴えて人々の心を操作する。それによって、人々を分断させたり、攻撃的にさせたりするわけである。この著作の中で、彼は、国粋主義的なナラティヴが独裁者によって語られるとその国は戦争に向かうと述べているが、なんと出版されたのが2021年11月下旬で、ロシアによるウクライナ侵攻 (2022年2月24日) の直前なのだ。あたかも、ウクライナ侵攻を予測していたかのような著作といえる。
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