2020年9月13日日曜日

日本人の一人当たりの生産性の低さ(2)―過度な手作り信仰

  前回の記事で、日本人の一人当たりの生産性の低さの社会慣習的要因の一つとして、17世紀の勤勉革命を挙げたが、ここでは、もう少し事例を紹介し、それがいかに社会のマイナスになっているかを指摘してみたい。個人的に、私はもっといろんなことを合理的かつ効率的にと願っているが、これがあたかも日本人の幸福を奪っているかのような論評を見かけることもある。効率主義が日本人の幸福感を奪っているとするならば、先進国における一人当たりの生産性の低さと、幸福感の相対的な低さ・自殺率の高さとの同居はどのように説明するのだろうか。

 確かに、効率の追求は幸福感を下げるという一面は否定しない。人間の脳は、オートメーション化された製造過程の一部を担当するよりも、自分で1つのものを造り上げることに喜びを感ずるように進化しているはずなので、産業革命やフォードのオートメーションシステムは大量生産を可能にしたが、人々のモノ造りの喜びを低下させただろうことは予想できる。しかし、人類は、食料など、生存のための生産時間を短縮することによって余暇を創り出し、それを教育や娯楽などに割り振ったり、福祉を充実させることに使用したりすることを学ぶようになった。したがって、効率性が幸福感を下げるというのは、根拠がかなり薄いということがわかるだろう。

 本記事では、合理性や効率性を阻むだけではなく、幸福感を下げるものとして、奇妙な手作り信仰も指摘したい。しばらく前に、スーパーでポテトサラダを購入しようとした女性に、「母親ならポテトサラダくらい自分で作ったらどうだ」とある男性が言葉を投げつけたことで物議を醸しだしたが、料理や家事等の手作り信仰が、どれだけ女性の社会進出を妨げているか理解されているのだろうか。もちろん出来合いの食事には添加物等の不安があるのかもしれないが、過度の手作り信仰は、女性が専業主婦であることを前提としいているような気がしてならない。調理を含めた家事に効率を求めると、母親失格であるとか、家族への愛情不足という暗黙の社会規範があると、それで誰かに非難されなくても、子どもを持ちながらフルタイムで働いている女性に、常に何らかの罪悪感を抱かせることになる。この圧力は、もちろん専業主夫や食事の準備を担当する男性に対しても弱くはない。また、子どもの学校行事などで、「手作り」の物品が必要なことがあったりすることあるが、これはフルタイムでは働く女性には脅威である。父親が代わればよいでは済まない。子育てで多忙な時期に、追い打ちをかけるような手作り強制はできるだけ避けるのが望ましいと思う。

 教育においてもそうである。私自身、大講義等はいかに準備に時間をかけなくてすむかという効率性を重視し、その分、自分の研究や文献等に目を通すことに時間を充てている。研究や文献読解は、回りまわって大講義でも活かされ、卒論や修論・博論などの指導では直接必要になってくる。そういう状況で「手作りの教育」(何をもって「手作りの教育」と呼ばれるのか、実は私には理解できないのだが)という用語が独り歩きすると、大学教育の最も重要な目標である、知の継承と創造という作業が疎かになる。効率化できるところは徹底的に効率化し、節約した時間を知の継承と創造のための作業に充てる、それが多忙になった日本の大学教員に現実的にできることだろう。

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