2020年9月27日日曜日

アメリカでの警察官による黒人の射殺の報道に足りないもの

  アメリカにおいて、1964年にジム・クロウという人種差別法が廃止されてからのこの50年余の間に、黒人差別はずいぶんと改善された。しかし残念ながら、差別はそう簡単にはなくならないということは、さまざまな事例で報道されている。私が印象に残っているのは、「白人ならやっても大丈夫なことが、黒人がすると問題視される」ということを親から教わったという、ある黒人男性が記者に語った記事である。オバマが大統領になっても(これは、1964年の時点で、いったい誰が予想できたことだろうか)黒人への偏見がまだまだ強いということが実感できる記事だった。

 今年になってクローズアップされたのは、アメリカでの警察官による無実の黒人への銃撃・射殺であろう。そのシーンが映像として報道されて、ずいぶんと多くの人々にショックを与えたようである。黒人が差別されていることが、改めて世界中の人々の中で認識された。このようなショッキングな映像で人々に喚起を促すのは、メディアの大きな役割である。

 ただ、このような事例報道からより大きな問題に切り込むときに、私はもう少し統計的データが欲しいなと思う。映像では、黒人が銃撃されるシーンが報道されたが、では白人がこういう目にあわされることはないのだろうか。おそらくアメリカではそれがほとんどないということが当然なので、特に言及されていないのかもしれない。しかし、世界に向けての報道ならば、警察官に銃撃された人々についての人種比率のデータなどにもっと言及していればと思う。そうすれば、「ひょっとして白人の被害者もかなりいるのではないか」と疑う人に説得力があるし、また、「こんな目にあうのは黒人だけ」と信ずる人によきメッセージとなるだろう。なお、PNASのある論文によると実際は、被害にあっているのは、黒人は白人の2倍以上のようだ。

 もう一つ紹介が欲しいデータは、警察官の被害についてである。映像の中には、警察官が後ろから黒人を銃撃するものがあり、「なんとひどいことをする」という印象は与える。しかし、一方で、なぜ警察官がここまでしなければならないのかということも考えなければならない。後ろからの銃撃は卑怯で残虐な印象を与えるが、実は、隠し持った銃で振り向きざまに撃たれるというリスクも低くはないのである。

 インターネットで調べたところ、アメリカでは2019年に49名の警察官が殉職している。このうち42名が銃で撃たれたものである。この犯人の中で黒人の比率がどのくらいなのかはわからないが、銃による殉職の多さは、銃社会アメリカの大きな問題であろう。したがって、黒人への銃撃・射殺を報道することにより、黒人差別が依然として強いことを主張するのは大切なことだが、「黒人を虫けらのように殺す警察官がいる」のようなメッセージになると行き過ぎだろう。銃によって殉職する警察官の数にも触れ、背後にあるアメリカの銃社会の問題にもっと触れてもらうのが、より適切な報道のあり方ではないかと思う。

2020年9月17日木曜日

今の日本がナチスに似ている? ―違和感を覚えた新聞記事

  長かった安倍政権が終わり、新しく菅義偉が首相になった。この交代についてのコメント記事をいたるところで見かけるが、安倍政権の評価や菅政権への期待や問題点などさまざまである。弁証法論者の私は、肯定的な評価を見てもそうだなと思うし、否定的な評価(特に、公文書の廃棄や森友問題)を読んでも納得してしまう。しかし、917日の某新聞の記事には恐ろしく違和感を覚えた。ある大学の教員へのインタビュー記事だが、教員サイドの問題なのか、記者が自分の主張に改ざんしたのか、それはわからない。

 新聞記事は科学論文の基準が要求されるわけではないので、多少のことには目をつぶるべきかもしれない。しかし、まずその記事には、いわゆる「ビッグワード」が煽情的に踊っていた。たとえば、「生きる権利を守ることなく経済最優先で、暮らしが限界にまでボロボロ」という表現である。「暮らしが限界にまでボロボロ」とはどんな状態なのだろうか。たしかに貧困層は、一億総中流の時代と比べれば増ええているとは思うが、この表現はいかがなものだろう。また、「生きる権利」というと、個人的には、社会的ダーウィニズムや優生保護法的発想が連想されるが、どうやらここでは異なる意味に用いられているようだ。仮に貧困に対して無策だったとしても、「生きる権利」は大仰だ。

 それよりも違和感を覚えたのは、安倍政権の時代とナチス政権当時の類似性の指摘である。安倍政権の支持率の高さを、人々が「傍観者的に安倍政権を見ている」ことによるとして、ナチス政権当時に多くの人が消極的にヒトラーを支持したことと照合させて「空気が似ている」と判断しているわけだ。有権者が消極的にあるいは傍観者的に政権を眺めるという状況は、確かにナチス的独裁を生む必要条件かもしれないが、どの国どの時代にでも起きていていることで、これで「似ている」と主張されると、私がドナルド・トランプと「似ている」といわれるような違和感を覚える(目と耳が二つの男性だ)。

 もう一つの違和感は、特定秘密保護法への批判である。この法律は、現在ナチスに最も似ている政権からの情報保護が重要な目的であることは周知の通りだ。この政権は、独裁的、全体主義的、特定の民族へのジェノサイド疑惑、領土拡張主義、そしてそれらが周辺国に及んでいるという点で、現時点で最もナチスに似た政権だと思う。ナチス時代に見立てての現代日本の批判から、この記事の書き手はよほどナチスが嫌いなのではないかと思うが、それで以って、ナチスに最も似た政権に対抗するための特定秘密保護法を批判するというのは、際立って奇妙な論法であろう。

 

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2020年9月13日日曜日

日本人の一人当たりの生産性の低さ(2)―過度な手作り信仰

  前回の記事で、日本人の一人当たりの生産性の低さの社会慣習的要因の一つとして、17世紀の勤勉革命を挙げたが、ここでは、もう少し事例を紹介し、それがいかに社会のマイナスになっているかを指摘してみたい。個人的に、私はもっといろんなことを合理的かつ効率的にと願っているが、これがあたかも日本人の幸福を奪っているかのような論評を見かけることもある。効率主義が日本人の幸福感を奪っているとするならば、先進国における一人当たりの生産性の低さと、幸福感の相対的な低さ・自殺率の高さとの同居はどのように説明するのだろうか。

 確かに、効率の追求は幸福感を下げるという一面は否定しない。人間の脳は、オートメーション化された製造過程の一部を担当するよりも、自分で1つのものを造り上げることに喜びを感ずるように進化しているはずなので、産業革命やフォードのオートメーションシステムは大量生産を可能にしたが、人々のモノ造りの喜びを低下させただろうことは予想できる。しかし、人類は、食料など、生存のための生産時間を短縮することによって余暇を創り出し、それを教育や娯楽などに割り振ったり、福祉を充実させることに使用したりすることを学ぶようになった。したがって、効率性が幸福感を下げるというのは、根拠がかなり薄いということがわかるだろう。

 本記事では、合理性や効率性を阻むだけではなく、幸福感を下げるものとして、奇妙な手作り信仰も指摘したい。しばらく前に、スーパーでポテトサラダを購入しようとした女性に、「母親ならポテトサラダくらい自分で作ったらどうだ」とある男性が言葉を投げつけたことで物議を醸しだしたが、料理や家事等の手作り信仰が、どれだけ女性の社会進出を妨げているか理解されているのだろうか。もちろん出来合いの食事には添加物等の不安があるのかもしれないが、過度の手作り信仰は、女性が専業主婦であることを前提としいているような気がしてならない。調理を含めた家事に効率を求めると、母親失格であるとか、家族への愛情不足という暗黙の社会規範があると、それで誰かに非難されなくても、子どもを持ちながらフルタイムで働いている女性に、常に何らかの罪悪感を抱かせることになる。この圧力は、もちろん専業主夫や食事の準備を担当する男性に対しても弱くはない。また、子どもの学校行事などで、「手作り」の物品が必要なことがあったりすることあるが、これはフルタイムでは働く女性には脅威である。父親が代わればよいでは済まない。子育てで多忙な時期に、追い打ちをかけるような手作り強制はできるだけ避けるのが望ましいと思う。

 教育においてもそうである。私自身、大講義等はいかに準備に時間をかけなくてすむかという効率性を重視し、その分、自分の研究や文献等に目を通すことに時間を充てている。研究や文献読解は、回りまわって大講義でも活かされ、卒論や修論・博論などの指導では直接必要になってくる。そういう状況で「手作りの教育」(何をもって「手作りの教育」と呼ばれるのか、実は私には理解できないのだが)という用語が独り歩きすると、大学教育の最も重要な目標である、知の継承と創造という作業が疎かになる。効率化できるところは徹底的に効率化し、節約した時間を知の継承と創造のための作業に充てる、それが多忙になった日本の大学教員に現実的にできることだろう。

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日本人の一人当たりの生産性の低さ(1)―勤勉革命

2020年9月5日土曜日

日本人の一人当たりの生産性の低さ(1)―勤勉革命

 前々回の記事で、「国民性」という言葉は好きではないと書いたが、最近、個人的に懸念しているのが日本人の一人当たりの生産性の低さで、これが「国民性」ではないのかと気になっている。現在、先進国の中ではかなり下位に位置するようだ。世界の人々に豊かになって欲しいという理想はあるものの、日本が相対的に貧しくなるのはやはり避けて欲しい。これが「国民性」によるものなのか、生産システムや経済システムなどの制度によるものなのか、特に後者については素人なのでわからない。

 日本の文化的伝統あるいは習慣についていえば、生産性向上を阻む要因がいくつか考えられる。たとえば、個人的な話で申し訳ないが、何年か前から、私の株を管理してくれている証券会社から手書きの誕生日カードが届くようになった。私の株など微々たるもので、顧客全員にこんなことをしているのかと考えると、なんと非効率的な会社だろうと思ってしまう。必死に顧客サービスをしているつもりなのかもしれないが、こんなことをしている暇があったら、もっと経済の動向と株価の変動を研究してくれよと思ってしまう。

 まあ、百歩譲って誕生日カードを嬉しく思うとしても、手書きであることが必要なのだろうか。概して手書きは「心がこもっている」と想定されているが、「心がこもっている」ことが、他国と比較して日本においてとくに重要な気がする。たとえば、スーパーでのレジ打ちは日本では立って行うのが当たり前だが、多くの国では座って行われる。立って行う必要があるだろうか。座ってレジ打ちするとお客様に対して失礼で、「心がこもっていない」ことになるのだろうか。私は、立っていては疲れるだろうし、疲労度が高ければ非効率だと思うのだが、この非効率を容認する風土が一人当たりの生産性の低さに結びついているのではないかと思う。橘玲氏がどこかで述べていたが、まさしく「日本人は合理性を憎んでいる」のではないかと思う。

 どこの文化でも、謝罪にしても、感謝にしても、「心から」行うことは大切である。しかし、謝罪会見等で、謝罪の仕方から「心がこもっている」かどうか、あれだけ批評されるのは日本の特徴ではないだろうか。この「心から」(私が好きな二重過程理論では、「直感」からということになるが)が要求される傾向が強いのは、人間関係が固定的で長期的な文化においてであると言われる。人間関係が長期的であることがデフォルトである状況では、何度も裏切ったり迷惑をかけたりする人物は忌避されるわけである。

 もう一つの文化的要因は、産業革命(industrial revolution)とほぼ同じ時期に日本で起きた勤勉革命(industrious revolution)だろう。この用語は速水融氏によって提唱されたもので、江戸時代の農村部に生じた生産革命である。産業革命では、機械化を資本が支えて、人間による労働を節約することによって生産性が向上したが、日本の勤勉革命は、家畜が行っていた労働を人間が肩代わりする資本節約・労働集約型の生産革命である。たとえば、室町時代には田畑を耕すのに牛馬がよく使われていたが、江戸時代になるとこれを人間が行うようになった。進歩とは逆行のように見えるが、耕地面積の少なさから牛馬の維持にコストがかかり、単位面積当たりの収穫量を増すためには、人々が組織的に集約農業を営むほうが良いというわけである。これが日本人の勤勉的な労働観に影響を与えたと考えられているようだ。明治の殖産興業や昭和の高度成長期にはプラスだったかもしれないが、グローバル化された合理主義の状況では、勤勉の無駄遣いが至るところで見られるように思える

2020年9月1日火曜日

魔笛における断層とその解釈ー啓蒙とその闇

 私の前任校には音楽学部があり、今は亡き指揮の先生にオペラ解釈についていろいろと教えていただいたものである。現任校ではオペラについて話すことがほとんどなくなった。しかし、モーツアルトの「魔笛」については、ユング派の心理学者であるエーリッヒ・ノイマンの解釈を読んで以来、心理学から論じてみたいとずっと思っていた。魔笛は、音楽は優れているが、シカネーダーの台本には大きな欠陥があるという批判が上演以来少なくない。すなわち物語の筋に断層があるというもので、前半と後半で善玉と悪玉が入れ替わると同時に、童話劇が一転して道徳劇になっていることを指す。話の筋の前半のモデルは童話「ルル」にあり、この物語には善の妖精と悪の魔法使いが登場する。魔法使いは暴虐で、娘をさらってきては自分のものにしている。シカネーダーは、それでは客を呼べないということで、客寄せのために善悪を逆転させたというわけである。

 しかし、別の観点から見ればこれは断層というよりはファンタジックなものと聖なるものの統合と考えることもできる。モーツアルトとシカネーダーは、フリーメーソンを通じて知り合った。フリーメーソンは入信の密儀などに西洋神秘主義の形式を受け継いで入るが、同時に自然科学や合理主義を取り入れた秘密結社的な男性だけの教団である。魔笛にはフリーメーソンの最終目標が見事に表現されており、人間成長のための密儀参入劇と解釈することが可能なのである。ノイマンは、魔笛を母権的意識と父権的意識の対立であると解釈している。批判された筋道の断層も、意識の誤謬と捉えれば、より深い無意識を包括する意義を提供してくれていると考えている。意識と無意識の多様な面が示される夢に似た多層性がこのオペラの中に現れていると考えられるのである。

 このオペラには、合理性を意識した啓蒙的な道徳と古態的な象徴が混交している。フリーメーソンの儀式の本質は入信密儀にあり、「夜を通って光へ」という言葉に集約される。光、すなわち象徴として太陽は入信過程の古態系で、無意識の闇と戦う意識の化身である。この中で、英雄は入信の試練をへて新しく生まれ変わる。この再生は自我の独立に相当し、暖かく包み込んでくれるグレートマザーからの巣立ちとしてイメージされる。これが魔笛では、「試練をへて夜の女王殺し」という元型的イメージとして語られているのである。元型とは、カール・グスタフ・ユングが提唱した概念で、イメージや象徴を生み出す源となる存在とされ、集合的無意識のなかで仮定される。ザラストロが支配する聖なる森には、「叡智」と「理性」と「自然」の3つの神殿 (3はフリーメーソンでは聖なる数字である) があり、これらはみな父性原理に基づいている。一方、夜の女王は光の原理と敵対して下界と地獄を象徴している。彼女は、父権原理から見れば自我の独立 (自己実現) を妨害する原始的な母権すなわちグレートマザーのもつ恐ろしい面を表わしている。2幕第3場では、ザラストロの弁者と僧の二重唱の「女の姦計から身を守れ」が歌われるが、このような女性性の極度の否定は母権と対立する父権の現れである。

 さてノイマンも指摘していることだが、これをそのまま絶対善と絶対悪の対立と解釈するには問題があるだろう。夜の女王を絶対悪とすれば、当初の娘を誘拐された母親の嘆きや彼女自身がもつ聖性は意識的な擬態にすぎないということになるが、この解釈は妥当だろうか。この解釈が成り立たないのは、タミーノに贈られた魔法の笛とパパゲーノに与えられた鈴の贈り手が女王であることから明らかである。また、普通オペラでは、善玉には善玉、悪玉には悪玉らしい音楽がついて回るが、夜の女王の最初のアリアには荘厳な神聖さと優しさとが備わっていて、とても悪玉一辺倒とは考えられない。なおこの点について、シカネーダーが途中からモーツァルトに無断で突然善悪を逆転させてしまったにもかかわらず、だらしないモーツァルトが前半の作曲のし直しを怠ったと言う説もあったようだ。しかし現在では、モーツァルトは最初から善悪逆転に同意していたという説が有力である。

 またモーツァルトの他のオペラからうかがわれる彼の女性観からも、夜の女王を悪の権化とするには無理がある。確かに彼の女性観は、「コシ・ファン・テュッテ」に見られるようにあまり良いものではない。しかし「コシ・ファン・テュッテ」では貞操を守らなかった女性でも許されている。これは、「ドン・ジョヴァンニ」において、悪逆非道のプレイボーイが最後は許されずに炎熱地獄に落ちるというストーリーと対照的である。

 一方、ザラストロの方も善玉一辺倒ではない。人の娘をさらうという蛮行や奴隷を有していること、またモノスタートスにパミーナの見張りを命じながらその後でむち打ちの刑を言い渡したことなど、神のような賢者と言いながらどこかその善行に無理がある。実はザラストロはパミーナに恋をしているが、その感情を自分自身に厳重に禁じているため、やはりパミーナに恋したモノスタートスに、その反動として罰を強いたと考えることもできそうだ。

 この考えに無理があるとしても、魔笛の中の登場人物をそれぞれ影元型のイメージとして解釈することは十分に可能であり、そうするとザラストロの行動も理解できる。すなわち禁欲的で賢者のザラストロの影としてその欲望をあらわにしたモノスタートス、やはり禁欲的に試練に耐えようとするタミーノの影として食欲と性欲のパパゲーノが配されている。影は、徳のために抑圧された無意識の元型なのである。そして、シカネーダーやモーツァルトはその影の部分に深い愛情を注いでいるようにも思える。シカネーダーは初演以来一貫してパパゲーノを演じており、モーツァルトもパパゲーノに対する思い入れは深い。また、モノスタートスに対しても、2幕でのアリアで、「くろんぼは醜いからな、それじゃ俺には心がないってのかい?と歌わせている。一般に、オペラでは悪役がテノールということは少ないが、モノスタートスはテノールであり、このアリアはアップテンポだが物悲しく美しい。影は、「ドン・ジョヴァンニ」では殺されたが、「魔笛」ではそうではない。

 さらにシカネーダーとモーツアルトにとって、完成された愛は、タミーノとパミーナのように試練を経た愛だけではなく、パパゲーノとパパゲーナの愛の両方を備えたようなものなのではないだろうか。前者の愛の完成が神殿への入場に、後者の愛の完成が彼らの子どもたちである小さいパパゲーノやパパゲーナの誕生というように、精神性と肉性を兼ね備えたものが愛の全体を構成しているように思われる。またザラストロやタミーノに対するやんわりとした批判は、当時の啓蒙主義が特権的なブルジョアジーのためだけのものであることに対する批判でもあろう。モノスタートスの「くろんぼは醜いからな」と、パパゲーノの「黒い鳥だって確かにいるんだから黒い人間だってどうしていないことがあるのかね?」に偽善的な啓蒙に対する彼らの想いが語られていよう。啓蒙主義の時代は、殺人が激減し、魔女狩りに代表される宗教的拷問、宗教戦争が終わりを告げた時代ではある。しかし、その渦中で生きている人々には、さまざまな思いがあったことがうかがい知れる。