2020年9月1日火曜日

魔笛における断層とその解釈ー啓蒙とその闇

 私の前任校には音楽学部があり、今は亡き指揮の先生にオペラ解釈についていろいろと教えていただいたものである。現任校ではオペラについて話すことがほとんどなくなった。しかし、モーツアルトの「魔笛」については、ユング派の心理学者であるエーリッヒ・ノイマンの解釈を読んで以来、心理学から論じてみたいとずっと思っていた。魔笛は、音楽は優れているが、シカネーダーの台本には大きな欠陥があるという批判が上演以来少なくない。すなわち物語の筋に断層があるというもので、前半と後半で善玉と悪玉が入れ替わると同時に、童話劇が一転して道徳劇になっていることを指す。話の筋の前半のモデルは童話「ルル」にあり、この物語には善の妖精と悪の魔法使いが登場する。魔法使いは暴虐で、娘をさらってきては自分のものにしている。シカネーダーは、それでは客を呼べないということで、客寄せのために善悪を逆転させたというわけである。

 しかし、別の観点から見ればこれは断層というよりはファンタジックなものと聖なるものの統合と考えることもできる。モーツアルトとシカネーダーは、フリーメーソンを通じて知り合った。フリーメーソンは入信の密儀などに西洋神秘主義の形式を受け継いで入るが、同時に自然科学や合理主義を取り入れた秘密結社的な男性だけの教団である。魔笛にはフリーメーソンの最終目標が見事に表現されており、人間成長のための密儀参入劇と解釈することが可能なのである。ノイマンは、魔笛を母権的意識と父権的意識の対立であると解釈している。批判された筋道の断層も、意識の誤謬と捉えれば、より深い無意識を包括する意義を提供してくれていると考えている。意識と無意識の多様な面が示される夢に似た多層性がこのオペラの中に現れていると考えられるのである。

 このオペラには、合理性を意識した啓蒙的な道徳と古態的な象徴が混交している。フリーメーソンの儀式の本質は入信密儀にあり、「夜を通って光へ」という言葉に集約される。光、すなわち象徴として太陽は入信過程の古態系で、無意識の闇と戦う意識の化身である。この中で、英雄は入信の試練をへて新しく生まれ変わる。この再生は自我の独立に相当し、暖かく包み込んでくれるグレートマザーからの巣立ちとしてイメージされる。これが魔笛では、「試練をへて夜の女王殺し」という元型的イメージとして語られているのである。元型とは、カール・グスタフ・ユングが提唱した概念で、イメージや象徴を生み出す源となる存在とされ、集合的無意識のなかで仮定される。ザラストロが支配する聖なる森には、「叡智」と「理性」と「自然」の3つの神殿 (3はフリーメーソンでは聖なる数字である) があり、これらはみな父性原理に基づいている。一方、夜の女王は光の原理と敵対して下界と地獄を象徴している。彼女は、父権原理から見れば自我の独立 (自己実現) を妨害する原始的な母権すなわちグレートマザーのもつ恐ろしい面を表わしている。2幕第3場では、ザラストロの弁者と僧の二重唱の「女の姦計から身を守れ」が歌われるが、このような女性性の極度の否定は母権と対立する父権の現れである。

 さてノイマンも指摘していることだが、これをそのまま絶対善と絶対悪の対立と解釈するには問題があるだろう。夜の女王を絶対悪とすれば、当初の娘を誘拐された母親の嘆きや彼女自身がもつ聖性は意識的な擬態にすぎないということになるが、この解釈は妥当だろうか。この解釈が成り立たないのは、タミーノに贈られた魔法の笛とパパゲーノに与えられた鈴の贈り手が女王であることから明らかである。また、普通オペラでは、善玉には善玉、悪玉には悪玉らしい音楽がついて回るが、夜の女王の最初のアリアには荘厳な神聖さと優しさとが備わっていて、とても悪玉一辺倒とは考えられない。なおこの点について、シカネーダーが途中からモーツァルトに無断で突然善悪を逆転させてしまったにもかかわらず、だらしないモーツァルトが前半の作曲のし直しを怠ったと言う説もあったようだ。しかし現在では、モーツァルトは最初から善悪逆転に同意していたという説が有力である。

 またモーツァルトの他のオペラからうかがわれる彼の女性観からも、夜の女王を悪の権化とするには無理がある。確かに彼の女性観は、「コシ・ファン・テュッテ」に見られるようにあまり良いものではない。しかし「コシ・ファン・テュッテ」では貞操を守らなかった女性でも許されている。これは、「ドン・ジョヴァンニ」において、悪逆非道のプレイボーイが最後は許されずに炎熱地獄に落ちるというストーリーと対照的である。

 一方、ザラストロの方も善玉一辺倒ではない。人の娘をさらうという蛮行や奴隷を有していること、またモノスタートスにパミーナの見張りを命じながらその後でむち打ちの刑を言い渡したことなど、神のような賢者と言いながらどこかその善行に無理がある。実はザラストロはパミーナに恋をしているが、その感情を自分自身に厳重に禁じているため、やはりパミーナに恋したモノスタートスに、その反動として罰を強いたと考えることもできそうだ。

 この考えに無理があるとしても、魔笛の中の登場人物をそれぞれ影元型のイメージとして解釈することは十分に可能であり、そうするとザラストロの行動も理解できる。すなわち禁欲的で賢者のザラストロの影としてその欲望をあらわにしたモノスタートス、やはり禁欲的に試練に耐えようとするタミーノの影として食欲と性欲のパパゲーノが配されている。影は、徳のために抑圧された無意識の元型なのである。そして、シカネーダーやモーツァルトはその影の部分に深い愛情を注いでいるようにも思える。シカネーダーは初演以来一貫してパパゲーノを演じており、モーツァルトもパパゲーノに対する思い入れは深い。また、モノスタートスに対しても、2幕でのアリアで、「くろんぼは醜いからな、それじゃ俺には心がないってのかい?と歌わせている。一般に、オペラでは悪役がテノールということは少ないが、モノスタートスはテノールであり、このアリアはアップテンポだが物悲しく美しい。影は、「ドン・ジョヴァンニ」では殺されたが、「魔笛」ではそうではない。

 さらにシカネーダーとモーツアルトにとって、完成された愛は、タミーノとパミーナのように試練を経た愛だけではなく、パパゲーノとパパゲーナの愛の両方を備えたようなものなのではないだろうか。前者の愛の完成が神殿への入場に、後者の愛の完成が彼らの子どもたちである小さいパパゲーノやパパゲーナの誕生というように、精神性と肉性を兼ね備えたものが愛の全体を構成しているように思われる。またザラストロやタミーノに対するやんわりとした批判は、当時の啓蒙主義が特権的なブルジョアジーのためだけのものであることに対する批判でもあろう。モノスタートスの「くろんぼは醜いからな」と、パパゲーノの「黒い鳥だって確かにいるんだから黒い人間だってどうしていないことがあるのかね?」に偽善的な啓蒙に対する彼らの想いが語られていよう。啓蒙主義の時代は、殺人が激減し、魔女狩りに代表される宗教的拷問、宗教戦争が終わりを告げた時代ではある。しかし、その渦中で生きている人々には、さまざまな思いがあったことがうかがい知れる。

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