2019年9月23日月曜日

「ヒモ状態」って?―男女共同参画社会からは程遠い侮蔑表現ということを理解しているのだろうか?

 918日に、さいたま市の教職員用集合住宅で、この住宅に住む小学4年生の進藤遼佑さんが殺害されているのが見つかり、義理の父親の進藤悠介容疑者が逮捕された。非常に悲しい事件だが、進化の視点からは、残念ながら継父による子殺しは繁殖あるいは遺伝子の適応度をあげることになる (適応度が高いといって、倫理的に許容されるわけではない)。その理由は、継子を育てるということは、自分と異なる遺伝子を残すためにコストを払うことになるからである。この点は、デイリーとウイルソンによる『人が人を殺すとき―進化でその謎をとく』においても指摘され、実際、継父による子殺しの確率は実父によるものよりも10倍以上も高い (ただし、そもそも親による子殺し自体が極めて少ないので、10倍以上といってもやはり統計的には微々たるものである)

しかしこの記事の主題は適応度の問題ではなく、報道のされ方である。元は週間朝日のようだが、そのネットの記事には、「さいたま小4死体遺棄事件 逮捕の義父は母親と“ネット婚”、ヒモ状態だった」というヘッドラインが付けられていた。実際、捜査関係者から「悠介容疑者は、(中略)・・最近は無職という状態が続いていた。普段は主夫でヒモ状態」という証言があり、それを踏まえた上で「ヒモ状態」という表現をヘッドラインに用いたのだろうが、これに問題を感じなかったのだろうか。

 私は、差別用語を使わないようにしようという言葉狩りには必ずしも賛成ではない。しかし、「ヒモ状態」という表現は、結婚している無職の男性を明らかに侮蔑的に揶揄したものである。そして、その背景に、「結婚したからには男性は金を稼ぐ仕事をしなければならない」という性役割固定的な価値観がある。一般に、結婚した男性が無職であることに対する世間の風当たりは強い。おそらくそのプレッシャーは女性よりははるかに強く、この固定観念が、男女共同参画における多様性を妨げている。現在、不況やうつなどが理由で、結婚している男性で職について十分なお金を稼いでいない人も多い。「ヒモ状態」は、明らかに彼らを追い詰める表現である。

 男女共同参画社会においては、「女性は働かずに家で子育て」という性役割観も矯正していかなければならないが、「男性は外で働いて金を稼がなければいけない」という固定観念も、同じように消していかなければならない。そういうことを、週刊朝日のこの記事を書いた人間は理解しているのだろうか? 理解できていないから使用するのでしょうね。

2019年9月19日木曜日

中国における非人道的臓器移植―日本のメディアはなぜ報道しない?

 先日、知人から中国における臓器移植が問題になっていると伺った。私も薄々聞いてはいたが、ネットで調べてみると日本のメディアであまり報道されていないことがらが数多くヒットした。最も重大な記事は、中国についての国際法廷 (China Tribunal) から、2018年の12月に下された暫定判決である (原文は英語)。

 この国際法廷は、中国における、囚人からの強制臓器採取の多さから開かれたもののようである。さまざまな資料や証拠から、「臓器が移植可能になるまでの待ち時間が非常に短いと、中国の医師や病院が約束していること」、「法輪功とウイグル人の拷問があったこと」、「蓄積された数値的証拠から、それに見合った数の自発的なドナーが存在することは不可能」という結論を下している。つまり、明確な証拠があったわけではないが、自発的ドナー以外から強制的にドナーがかき集められて移植が行われ、その被害者が、中国当局が禁じた法輪功の信者やウイグル人である可能性が極めて高いというわけである。そして、この件について、国際法廷または国連でのさらなる調査が開始されるべきであり、ジェノサイドとされるかどうかを検証していく義務があることを主張している。

 この判決は、海外メディアではさまざまに報じられている。英国の革新系の新聞であるガーディアンも、”China is harvesting organs fromdetainees, tribunal concludes”という記事で報じている。一方で、日本のメディアでは、なぜが大きく報じられていない。日本で記事があるのは、産経新聞や週刊ポストくらいで、その扱いも極めて小さい。週刊ポストの記者は、ウイグルの中心であるウルムチ空港で、「特殊旅客、人体器官運輸通道」という案内があることを見つけ、臓器移植をして欲しい人のための特別なルートがあることを報道している。必要なVIPが来れば、すぐに強制収容所のウイグル人が殺されるという仕組みになっているのだろう。嫌韓報道ということでケチがついた週刊ポストだが、産経とならんで保守系とされている。このような人権どころか人道に反するような記事を、なぜ人権重視のはずの革新系メディアは大きく報じないのだろうか。人権派のはずの文在寅が、アジアで最も人権が守られていない北朝鮮にすり寄る奇妙さと同じものを感ずる。少しはガーディアンを見習ってもらえないだろうか。中国を批判するのは右翼であって、加害の歴史を反省していない人間だという偏見は、そろそろおかしいということを理解して欲しいものである。

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2019年9月10日火曜日

抗がん剤治療の辛さはなぜ思い出しにくいか―ミエリン化の有無


 私は、認知心理学者を名乗りながら、脳や神経系には全く詳しくない。それでも時々はその種の本に目を通すのだが、それによって思いがけず、18年前に抱いた疑問が解けた。この18年前の疑問とは、抗がん剤治療の副作用についてのものである。副作用はおそろしく辛かった。抗がん剤は細胞分裂が活発な箇所を攻撃するので、副作用には、髪が抜けたり、爪がフニャフニャになったりといろいろあるのだが、やはり最も辛かったのは、どうにもならない気分の悪さと疲労感である。ただし、医学的に怖いのは、骨髄抑制による白血球の減少が引き起こす免疫力の低下と、消化器官神経系の不全による腸閉塞のようだ。私の場合、白血球は少なくなったが、幸い、腸閉塞は起こさなかった。

 点滴で抗がん剤を入れた後は、3日ほどグロッキー状態が続き、形容するなら「吐いても楽にならないひどい二日酔い状態」が最もフィットしている。また、最も辛い状態が終わっても、治療期間中は、胸に常に三角定規が引っかかっているような感覚があり、指先の痺れは慢性的に続いていた。

 ところが、このグロッキー状態をうまく思い出せないのである。気分が極めて悪かったのは確かなのだが、では、「はて、どんな感じ?」と思い出そうとしても、苦しさが茫漠としていて鮮明性に欠けるのである。私は、家の中を裸足で歩くとき、よく足の小指をドアなどにぶつけるのだが、あの痛みは実によく覚えている。向う脛を打ったときの痛さも、思い出そうとすると鮮明によみがえる。この違いは何なのだ?

 こんなことを、今まで知らなかったのかと呆れかえられるかもしれないが、この違いは、求心性の神経の違いにあるようだ。つまり、足の小指などの外的な傷害による組織の損傷と、内臓疾患などによる損傷とでは、伝えられる神経が異なるというわけである。前者の損傷は、進化的に新しいミエリン (髄鞘) 化された神経線維を経由し、鮮明な痛みを感じさせてくれる。一方、後者の損傷は、ミエリン化されていないC繊維などによって中枢に伝えられ、どこがどんなふうに痛いのかは曖昧なままなのである。ミエリンとは、神経科学において脊椎動物の多くのニューロンの軸索の周りに存在する絶縁性のリン脂質の層を指し、 ミエリン鞘ともいう。コレステロールの豊富な絶縁性の髄鞘で軸索が覆われることにより神経パルスの電導を高速にする機能があるわけである。一方、ミエリン化されていない神経線維だと、幅広く異常を拾い上げるということは得意なのだが、その異常を的確に痛みとして中枢に届けることができない。

 ミエリン化されていない神経線維は、進化的に古い。しかし、これを全部ミエリン化するにはコストがかかり、結局はミエリン化されないままに現在に至っているようだ。外科の医療等が進んだ現在なら、ミエリン化されて的確に痛みを生じさせることができれば生存に有利かもしれない。しかし、医学らしきものがほとんどないような野生環境では、足や皮膚の傷はそれを治すことができるので、はっきりとした痛みは適応的である。しかし、内臓から鋭い痛みの信号を受け取っても、それに対処することができなければ、ミエリン化のコストがかかるだけなのだ。

 かくして18年来の謎が解けたのだが、同じような理由で、二日酔いの辛さも鮮明に思い出されにくいのだろう。あれだけ辛くても、懲りずに繰り返す人が多いという事実は、それを雄弁に語っている。

2019年9月2日月曜日

ソウル滞在記―ICCS2019と安重根義士記念館


 8月の22日から24日に、ソウル大学でInternational Conference on Cognitive Scienceがあり、大学院生のS君といっしょに参加してきた。認知科学は、認知心理学、人工知能、神経科学、言語学、認識哲学の研究者が集まる学際的な領域だが、今回のこの学会は、人工知能が中心であり、また、同日程で韓国心理学会があったので、韓国の心理学者の参加者は極めて少なかった。

 この微妙な時期に韓国に行くというのは、S君もちょっと心配だったようだが、反日は一部の運動家であって、普通の市民や学会は全く大丈夫ということが改めて認識された滞在だった。ホテルでも屋台でもレストラン (というよりは、入ったのはほとんど「食堂」と呼んだ方がよいような店ばかりだったが) でも、極めて私たちに好意的だった。ホテルからは、地下鉄とバスでソウル大学に通ったが、迷ったときには親切に教えてもらえた。

 空き時間を利用して、ナムサン (南山) の麓にある、安重根義士記念館に行ってきた。地下鉄二号線のホイヨン (会賢) からちょっと登ったところにある。ここは2005年に訪れ、そのときは韓国の国花であるムグンファ (ムクゲ) がたくさん咲いていたという記憶があるが、その後、新しく建て替えられているようである。豊富な資料と、安重根の生い立ちから抗日運動、ハルビンでの伊藤博文暗殺までの経緯が展示されていたが、英語や日本語の説明が少なかったのが残念である。手っ取り早く知りたいなら、ウィキベディアで安重根を調べるのが近道かもしれない。

 日本政府の公式見解としては、安重根はテロリストのようだが、人物像や当時の日本の朝鮮半島を保護下におこうとする動きの中で、テロリストと言い切るには無理があり、やはりレジスタンス活動家としての名誉は与えられて然るべきであろう。ただ、私も歴史の専門家ではないので判断はできないが、伊藤博文は日韓併合にそんなに賛成というわけではないらしく、その意味で暗殺は決して賢明な戦略ではなかったのではないかという議論があるようだ。おそらくその点は、記念館の展示の中では触れられていなかったと思う (読めない韓国語の説明が多かったのでわからない)

 伊藤博文は、幕末の長州からの英国への留学生である長州ファイブの一人であり、どうすれば列強から日本の独立を守ることができるかに心胆を砕いていた。その想念は、安重根と同じものではないだろうかとも思うのだが、こういう悲劇に至ったのは残念極まりない。2人に語らせたら、いったいどんな話をしただろうかと想像にふけりたくなる。

 それにしても文在寅のあの反日はいったい何なのだろうか。どうやら積弊清算や南北の統一が大きな目標のようで、反日はその手段のようにも思えるが、もう理解を超えている。ナショナリズムを掲げながら習近平や金正恩に接近するさまは、ファシズム独裁者そのものではないかとも思える。最近、朝鮮日報日本語版が、日本における嫌韓をあおるということで停止されたが、メディアに対するここまでの干渉は、人権を標榜する人間がすることかと呆れを通り越している。幸い韓国は民主主義政体の国なので、辞任または任期が切れるまでの辛抱かもしれない。

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