2019年6月27日木曜日

パーセントがわからない大学生が増えている?


 もう20年前になるが、『分数ができない大学生』というショッキングな著作が話題になった。また近年、芳沢光雄氏が、パーセントがわからない大学生が増えているという警告を発している。私は大学では数学教育を担当しているわけではないので現状はわからないが、1980年代後半に、ある塾で中学生に数学を教えていて、それと同じようなこと実感していた記憶がある。

 1980年代当時、数学が苦手な中学生に共通していえることは、割合・比率・濃度などの理解不足であった(今も、おそらくそうだろう)。そして、個人的に奇妙だと感じたのは、理解しているとも思えないのに、中学校の2年生くらいまでは数学の試験の点数だけは一応取れているという実態であった。ところが、やはりというか、中3になって、比率などのちょっと応用を効かせなければならない問題が出始めると、数学の成績がガタ落ちになるということが多かったのである。

 芳沢氏の指摘にもあるように、この理解不足の背景には、以前の共通一次試験や現代のセンター試験に見られるような、解決過程よりも正解を出すことに重きをおいた数学教育があると思う。実際、塾で、割合や比率の原理を私が説明しても、中学生はその説明をほとんど聞こうともせず、「それで先生、何で何を割ればいいんですか?」とすぐに答えが出る近道を知りたがった。原理を理解していなくても、この近道でなんとかこれまで試験だけは切り抜けてきたのだろう。私は、センター試験の設問様式にすべての原因があるとは思わないが、このような思考スタイルが、おそらく小学校あたりから蔓延して、大学生に至っているのではないかと思う。

 実際、割合や比率、確率は、人間が理解しにくいということが心理学者によっても主張されている。『数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活―病院や裁判で統計にだまされないために』の著者であるゲルト・ギガレンツァーは、確率という概念は文明の産物であり、野生環境で進化したホモ・サピエンスの脳には、理解が困難だと主張している。この脳が得意とするのは確率計算ではなく頻度判断で、これなら、たとえば手を叩いたら寄ってくる鯉にでも理解可能である。手を叩いた後に餌がもらえる頻度が高いと鯉が判断すれば、寄っていくというわけだ。おそらく私たちホモ・サピエンスは、この原始的な頻度判断を用いて高等な確率をイメージしているのではないかと思われるので、原理的には、原始的な頻度判断と抽象的な比率・確率を結ぶことができる教育が可能ならば、「パーセントがわからない大学生」の問題を解決できるだろう。

 私は、数学教育の専門家ではないのでどのような方法が適しているのかわからないが、最も重要な点は、このような原理の理解を楽しいと思えるような学習スタイルを習得させることである。そのためには、たとえば、理科で教えられる濃度や、社会で教えられる人口密度などと、数学の割合・比率の単元を有機的に結びつけるような、教科横断的な教育プログラムあるいはカリキュラムを工夫すればよいのではないかと思う。数学における比率・確率という抽象的な領域が、直観的な頻度判断を可能にする濃度や人口密度などの具体例と結びつけば、少なくとも中学生レベルでの理解不足に対応できるのではないだろうか。

2019年6月20日木曜日

続「東洋人と西洋人の思考スタイルの違いをコンテクスト(文脈)に基づく新しい理論で説明」

 前回の記事で、Norhayati Zakaria先生との共著である Explanations for cultural differences in thinking: Easterners dialectical thinking and Westerners linear thinking.を、私の大学からプレスリリースしていただいたことを述べたが、これは、大学ホームページに研究紹介として改めて掲載されている。

 恥ずかしながら、このレビュー・理論論文が掲載されるまでにはかなりの紆余曲折がある。最も初期のアイデアは、2012年に札幌で開催されたCogSci2012において発表されている。
リサーチクエスチョンは、西洋人が比較的ルールに依拠して矛盾を嫌うが、東洋人は矛盾があってもそれを弁証的に受容しやすいという文化差をどのように説明するかである。これまでは、前回の記事にもあるように、「西洋の個人主義・東洋の集団主義」や、「西洋のギリシャ哲学・東洋の陰陽思想」という区分で説明されてきた。当初は、それに西洋の低コンテクスト文化・東洋の高コンテクスト文化という区分でも説明できますよというスタンスだったが、これでは主張として弱いということが問題だった。最大の難点は、エドワード・ホールが主張する西洋の低コンテクスト・東洋の高コンテクストという区分について、心理学的な実験・調査による証拠が少ないということである。

 しかし、2012年の学会発表以降、このような証拠が次々に集まりだし、また、これまで「西洋の個人主義・東洋の集団主義」と解釈されてきた研究が、コンテクストの高低の証拠とみなせたりするなど、証拠固めが進められてきた。

 さらに、ホールの理論がコミュニケーションの理論にとどまっていたのに対し、私たちはこれをビッグ・ヒストリーの理論として発展させた。つまり、67万年前のホモ・サピエンスの拡散から、地勢的・生態学的な要因によって文化多様性が生じたとするアプローチの中に位置づけることを試みたわけである。私の中では、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』は憧れの書なのである。概して、低コンテクスト文化は異文化交流時など、コンテクストを利用できない状況で形成される。歴史的には、異文化交流が頻繁な状況で低コンテクスト文化が形成されやすいわけである。しかし、異文化交流の結果、一つの文化に統一されれば、再度高コンテクスト文化に移行する。地勢的・生態学的に説明すれば、資源や産物の偏在があれば異文化交流は活発になるが、大きな平野に稠密な人口などがあると、一つの文化に統一されやすいということだ。これは下の図にフローチャートで示されるが、ギリシャやローマは典型的な前者であり、中国は後者になる。中国は多くの異民族の侵入に悩まされたが、漢文化として統一されている。そして、ギリシャでは矛盾を許さない論理学の伝統が生まれ、中国では陰と陽は表裏一体という思想が生まれたわけである。これらは、日本心理学会が発行している『心理学ワールド』においても解説されている。

 人々の世界観や思考スタイルを、地勢的・生態学的な要因で説明するのは、遺伝子から一足飛びにその人物の知能や行動を説明するような飛躍があるかもしれない。ホモ・サピエンスは、哲学的伝統だけではなく、それぞれの地域においてさまざまな文化スタイルや経済システムあるいは制度を作り上げてきた。それらが、複雑にからみあって、高コンテクスト・低コンテクストという文化の違いや、思考スタイルの好みが生まれてきているのだろうとは思う。しかし、民族の遺伝的な違いという要因を考慮せずに文化差が説明できるというジャレド・ダイアモンドに代表されるこのアプローチは、非常に魅力的なのだ。

2019年6月13日木曜日

プレスリリースー東洋人と西洋人の思考スタイルの違いをコンテクスト(文脈)に基づく新しい理論で説明


 先日、心理学の国際誌であるJournal of Cognitive Psychologyに理論論文が採択され、オンラインではすでに掲載されている。 自然科学系の学術誌と比較するとインパクトファクターが見劣りするが、社会科学系の理論論文で、ひきこもりや無縁社会の問題にも関係するとして、大学からプレスリリースしていただいた。以下がその内容で、本ブログでも紹介したい(一部略)

<概 要>
 大阪市立大学大学院文学研究科の山祐嗣教授は、アラブ首長国連邦のウロンゴン大学ドバイ校のNorhayati Zakaria博士と共同で、「東洋人と西洋人の思考スタイルの違いという文化差」を説明する新しい理論を発表しました。東洋人は、西洋人と比較して、矛盾があってもそれを受容しやすいという弁証法的傾向が強いとされていますが、これまでは、この違いは、東洋の集団主義文化・西洋の個人主義文化という枠組みで説明されていました。つまり、東洋人は集団主義文化の中で調和を重んじ、対立あるいは矛盾する主張があっても集団の調和を崩さないように弁証法的になるという説明です。しかし、上記の通説では説明のつかない事例が存在することから、山教授とZakaria博士は東洋の高コンテクスト1文化・西洋の低コンテクスト文化という枠組みで説明を試みました。コンテクストとはコミュニケーション時に話し手と聞き手が共有する暗黙の了解で、その依存度が高いと高コンテクスト文化になります。日本は「阿吽の呼吸」がよしとされる典型的な高コンテクスト文化です。つまり日本を含めた東洋では、コミュニケーションがコンテクストに依存する度合いが高いため、少々の矛盾が含まれていても暗黙裡にそれを解消できるとする規範が形成されているとする説明です。この説明は、地勢的・生態的要因から文化多様性をとらえるビッグ・ヒストリー2とも結びつけられ、また、日本と中国の差異の説明にも適用されています。

本内容は、英国の心理学専門誌『Journal of Cognitive Psychology』の出版に先立ち、201964日(火)にオンライン版に掲載されました。
1 コンテクストとはコミュニケーション時に話し手と聞き手が共有する暗黙の了解 。その依存度が高いと高コンテクスト文化となる。
2 ビッグバンから現在までの歴史を、自然科学と人文科学の数々の学問分野を結合した学際的アプローチを用いて研究する新しい学問分野。

雑誌名:Journal of Cognitive Psychology IF1.241
論文名:Explanations for cultural differences in thinking: Easterners dialectical thinking and Westerners linear thinking. 
著 者:Hiroshi Yama, Norhayati Zakaria 

<研究者からの一言>
 東洋と西洋の文化の違いについては、極めていいかげんな言説から、科学的あるいは理論的検証に基づいたものまで、数多く議論されています。この理論論文は、思考スタイルの差異についての科学的な多くの研究をレビュー・吟味した上で、新しい説明理論(東洋の高コンテクスト文化・西洋の低コンテクスト文化)を提唱したものです。この理論は、ビッグ・ヒストリーの枠組みにフィットし、現代のグローバル化にも示唆を与えてくれると期待できます。

<本研究の概略>
 「過度の卑下は半分自慢」という諺は矛盾を含んでいます。この矛盾から、この諺は不可解と判断されるでしょうか、それとも「なんとなくは理解できる」と判断されるでしょうか。このような矛盾が含まれた諺を中国人はアメリカ人よりも好むという研究に端を発して、思考スタイルについての多くの比較文化研究が行われました。これらをまとめると、西洋人はルールを重視する線形的思考スタイルを好み、東洋人は矛盾があってもそれを受け入れるという弁証法的思考スタイルを好むということになります。
 このような思考スタイルの文化差は、これまで主として東洋の集団主義文化・西洋の個人主義文化という区分の枠組みで説明されています。個人主義とは、自分自身を家族や仲間といった集団から独立したものとみなし、他者の目標よりも自分の目標を優先するという社会的パターンとして定義され、一方、集団主義とは、自分自身を集団の一部と見なし、自分自身の目標よりも集団の目標を優先し、集団内での調和を重視するという社会的パターンとして定義されます。一般に、西洋(欧米)は個人主義文化で、アジア、アフリカ、中南米は集団主義文化であると考えられています。
 この区分によって、東洋の集団主義文化では集団の調和が重んじられ、矛盾や対立があってもそれをそのままで受容するという態度や規範が形成され、弁証法的思考スタイルが好まれるという説明がなされてきました。しかしこの理論的説明には、チリやメキシコなど、南米の人々は集団主義文化だが弁証法的思考スタイルを好むわけではないという反例に突き当たります。そこで提唱されているのが、哲学的伝統による説明です。つまり、西洋にはギリシャにおける論理学を思考の規範とする伝統、東洋には陰と陽は表裏一体という陰陽思想という伝統があります。東洋では、「世界は流動的で常に変化している、そしてそれぞれの事象・事物が互いに結びついている、したがって矛盾は至るところで起きている」という世界観が形成されるというわけです。この理論は説得力がありますが、ではなぜこのような哲学的伝統が生まれたのかという説明に欠けます。
 そこで本研究で提唱された理論的説明は、エドワード・ホールが提唱した「東洋の高コンテクスト文化・西洋の低コンテクスト文化」という区分によるものです。コンテクストとは、コミュニケーション時に話し手と聞き手が共有する暗黙の了解です。このコンテクストに依存する度合いが高いと高コンテクスト文化になります。たとえば、日本における「阿吽の呼吸」や「察する文化」が典型的な高コンテクスト文化における現象です。これによって、東洋では、コンテクストを利用するという規範が形成されており、少々の矛盾があってもそれを暗黙裡に解消することができると人々が信じていて、弁証法的な思考スタイルが好まれると説明されるのです。
 高コンテクスト文化・低コンテクスト文化の理論は、地勢的・生態的に文化多様性を説明するというビッグ・ヒストリーという枠組みに位置づけることも可能です。一般に、異文化交流時にはお互いが暗黙理にもつ文化的背景に頼ることができず、低コンテクスト状況になります。つまり異文化交流が活発なところで低コンテクスト文化が形成されやすく、異文化交流が保たれるかどうかは、「資源や産物が遍在し、交流の手段がある」、「交流した結果、単一の文化が形成されにくい」という地勢的・生態的要因と結びつけることができるのです。ギリシャをはじめとする西洋は比較的この条件が満たされますが、中国は広闊な平野において漢民族を中心に文化的統一がすすみ、2番目の条件が満たされないということになります。
 本理論のもう1つの強みは、中国と日本の文化差を説明できるという点です。本研究では、日本と中国が含まれたいくつかの比較文化研究のメタ分析(既発表のデータについて、中国と日本とだけを取り出して比較)が行われ、日本人が中国人よりも弁証的思考スタイルを好むということが示されました。これは、集団主義・個人主義という枠組みでは説明できません。なぜならば、概して、中国人のほうが日本人よりも集団主義的であると考えられるからです。一方、コンテクストについては、日本人のほうが中国人よりも高いとされます。その第1の理由は、言語の特徴で、日本語は中国語よりも圧倒的に主語が省略されます。主語は、コンテクストによって復元することができれば省略が許容されやすくなりますが、日本人のほうがコンテクストに頼るという文化規範が形成されているわけです。第2の理由は、中国は主流となる漢民族に統一されたとはいえ、島国の日本と比較してはるかに異文化交流の歴史をもっています。すでに述べたように、異文化交流は文化を低コンテクスト化させるのです。

<今後の展望:理論的発展と産業化やグローバル化への示唆>
 本研究には、理論面と実践面での展望があります。実は、高コンテクスト文化・低コンテクスト文化という区分については、心理学においてまだまだ研究が行われておらず、国々を高コンテクストから低コンテクストに1次元上で並べることができるのか、複数の次元によるものなのかもあまり判明していません。この点はもう少し明らかにする必要があるでしょう。
 また、日本をはじめとする各国において、産業化という分業によって、多くの人々が伝統的な村落共同体から都市に住むようになりました。概して、都市では低コンテクスト文化が形成されやすいと考えられますが、このような研究はまだ行われていません。しかし、産業化の変化が速すぎると、高コンテクスト文化が維持されたままコンテクストを利用できないという状況に陥ります。育った文化背景をよく知らない人たちとのコミュニケーションや交流が必要な状況で、適切な低コンテクスト文化が形成されないと、私たちは不安になります。それが見知らぬ相手に対する恐怖や敵意に変わると、無縁社会や「ひきこもり」などの社会的孤立を生み出す原因となるのかもしれません。実際、「ひきこもり」が多いのは、日本や韓国、台湾ですが、いずれも産業化がすすんだ高コンテクスト文化の国です。高コンテクスト文化の国ほど、このような産業化に対して、社会的な問題が生ずると考えられます。
 現代は、国際的なグローバル化の時代でもあります。わたしたちは、多くの異文化交流を経験するだけではなく、多文化共生社会を創り上げていく必要があります。このような状況では、文化背景を異にする人々には、高コンテクスト文化的な交流が通じない場合があります。相手が望みもしない「おもてなし」をすると困惑されるでしょうし、せっかくの「おもてなし」をしているのに感謝されないという不満も生ずるかもしれません。「自分がして欲しいことは相手もして欲しいはずだ」という道徳の黄金律は、文化が異なると必ずしも通用しないのです。
 これらの社会的な問題は、山祐嗣教授の近刊の著作に記されています。
『「生きにくさ」はどこからくるのか―進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』 新曜社

2019年6月6日木曜日

米中貿易戦争の背景は何なのかー某時事番組での違和感

 先日、ある時事番組を見ていて、米中貿易戦争への対処についての意見について恐ろしく違和感を覚えた。このブログでは、独裁国家としての中国の怖さについて記した記事が2つある。

中国とはどうつきあっていくべきなのか
中国の脅威と人権問題―なぜ日本のメディアは問題視しない?

 しかし、その番組では、習近平の中国に対して、関税や華為(Huawei)の排除という形で圧力をかけつつあるトランプ政権を安倍政権が支持するということが批判されていた。メディアが政権を批判できるというのは健全な民主主義かもしれない。しかし、批判の理由が、貿易摩擦によって日本も被害を受けるとか、すり寄り行為への揶揄とか、そういうことに終始していたことに違和感を覚えたのである。

 彼らは、習近平政権の中国の実情を知っているのだろうか? 知っていないはずはないが、批判すると差別的嫌中の輩と同一視されてしまうのが怖いのだろか。現実に政権を運用する立場として、隣にとてつもない独裁国があっても、それをおおっぴらに批判したり交流を遮断したりすることはできない。実際、安倍政権から表立った中国批判はあまり聞かない。もし安倍政権を批判したいならば、メディアは、その現実路線、つまり独裁政権を大っぴらに批判していないことを批判すべきなのではないだろうか。

 米国をはじめとする民主的な国々は、中国も豊かになれば民主的な国になる(それが、政治・経済の一般原則のはずである)と信じてODE支援をし、貿易を重ねてきた。ところが、習近平政権になってからは、独裁、国内の人権侵害、国際社会における秩序破壊など、目に余ることが多くなってきた。日本のメディアが健全な批判勢力であるならば、それに対する日本の現政権への弱腰を批判し、香港の雨傘運動、台湾、チベット、ウイグルなどの支援を強化すべきと主張するのが真っ当なあり方ではなかろうか。

 毎日新聞は64日の社説で中国を「異質な大国」と評したがまさにその通りだと思う。天安門事件30周年の厳戒態勢は異様だった。独裁国が、経済的にも軍事的にも力をもつと、さまざまな懸念を生む。南シナ海における拡張主義はすでに知られているが、このような武力をちらつかせた国際的秩序の破壊以外に、ITの優位性を利用した情報の独占・操作や自然環境破壊、とくに共有地の悲劇を招くようなパワーゲームを平気で推し進める可能性もある。民主国家のメディアならば、この独裁に対する中国内外の批判勢力と連帯していくべきだろう。