スポーツ庁と文部科学省は、2020年東京五輪・パラリンピックの期間中にボランティアに参加しやすいように全国の大学と高等専門学校に授業や試験期間を繰り上げるなど柔軟な対応を求める通知を出したようだ。ではついこの間まで、あれだけ半期15週の授業回数を遵守せよといっていた文部科学省の強制はいったい何なのだろうか。ただでさえも教員の授業等の負担が大きい日本の大学において、この15週授業は教員にとって死活問題だった。本ブログの第1回目の記事において、日本の大学・研究機関から発信される論文が減少したことを警告しているが、この15週強要も、研究活動や論文執筆等に支障をきたす一因であり、また、夏休みの開始が遅れて7月後半の国際学会等の出席が非常に窮屈になっている。
確かに米国をはじめとする世界の大学では15週が基準であり、日本でも15週が求められるのは仕方がないと思っていた。ただし、それでも米国等の大学と比較すると、日本の場合は教員負担が大きいので、負担を減らすことが先だろうとも思っていた。また、高等教育の充実には仕方がないことかなとも思っていた。それが、オリンピックのボランティア程度で吹っ飛ぶとは、まあ、日本の大学の教育がいかに軽く見られていたかが実感できるエピソードとなった。
オリンピックのボランティアは貴重な経験になるかもしれない。しかし、オリンピックといっても所詮はイベントであり、前回の記事の「高校野球等をなぜ中止することができないのか」という私の主張と同じように、問題があるようならいつでも中止してもよいものだと思う。ボランティアのなり手がないなら雇用すべきだろうし、雇用するお金がないならば中止すればよいだけである。また、私はワールドカップでは十二分に楽しませてもらったが、これも所詮はイベントであり、しなければいけないものではない。
研究費が足りない、人件費が足りないという中で、オリンピックに巨額の予算がつぎ込まれるのはどうかと思うし、オリンピックによってインフラが充実するというそういうシステム自体もばかげている。オリンピックをせずにインフラを充実させるほうがよほど経済的なはずだ。
最初の問題にもどろう。文部科学省は、高等教育を何だと思っているのだろうか? その効果は簡単に目に見えるものではない。しかし、10年・20年単位でじわりと市民レベルでリテラシーが上がったり、メディアでの論議等が上質なものになったり、科学研究の進歩があったりするものだろう。「最近の大学生はバカだから勉強をさせろ」とか「大学の教員は休みが多くて暇だろう」程度の認識で、授業回数を増やしたりしているから、オリンピック程度で授業回数を減らせという妄言が吐けるのだろう。
いやまて。2020年は、パリでThinking2020の国際学会(4年に一度の思考心理学の国際学会で、ちょうどオリンピックイヤーの7月後半に開催される)がある。これはチャンスだ。次回は行きやすくなるかも。