2018年5月25日金曜日

日本語は聞き手責任言語?―日大アメリカンフットボール部の事例

 先日来、日大アメリカンフットボール部の部員による、関学QBへの危険なタックルについてのニュースやコメントが飛び交っている。内田正人前監督や日大側への批判が高まる中、当事者として日大の宮川氏が記者会見という異常な事態に陥っている。


 おそらく多くの人は、宮川氏に、ケガの可能性がある危険なタックルをするように指示したのは内田前監督または前コーチと推定しているが、前監督はそれを否定している。そのやりとりをみていて、日本は「聞き手責任言語」文化なのだなと改めて感じた。言語学者のJohn Hindsらによれば、世界の言語文化は、「話し手(書き手)責任・聞き手(読み手)責任」という視点で分類が可能である。コミュニケーションの成否の責任を、話し手側に帰する文化が前者で、聞き手側に帰する文化が後者である。

 主として西洋文化圏は話し手責任文化と考えられている。英語やドイツ語などでは、できるだけ文や表現における曖昧さをなくして、明晰に相手に伝えなければならない。曖昧な表現によって聞き手が間違えれば、これは話し手の責任になる。一方、日本をはじめとする東洋文化圏は聞き手責任文化といわれている。とくに、話し手の社会的地位が高い場合、聞き手は話されたことが少々曖昧でも、それを的確に理解しないと責任を問われることになる。曖昧な表現を解釈できなければ、「空気を読めない奴」ということにされてしまい、極端な場合には、殿様に「よきにはからえ」と言われて、失敗してしまうと、切腹しなければならない。森友や加計の「忖度」も同じ文化メカニズムで生じているといえる。

 宮川氏の会見では、監督やコーチとのやりとりが生々しく語られているが、生々しいだけにかなり真実味がある。監督の命令を伝えるコーチからは、「監督から、相手のQBをワンプレー目で潰せば出してやると言われた」と言われ、彼は「相手のQBを潰しに行くんで使ってください」と申し出たようである。それに対して監督は、「やらなきゃ意味がないよ」と発言したというのが彼の記憶のようだ。さらに、コーチからの「相手のQBがケガをして秋の試合に出られなければこちらの得」という発言を加味すれば、この「潰す」というのはどう解釈しても、ケガをさせろという命令になる。

 したがって、宮川氏は、空気を読み、曖昧な「潰す」を、「ケガをさせても構わない」と解釈した点で、聞き手責任は果たしたのではないかと思える。ところが、このことが大きく報道されて問題となってしまったために、前監督側から「聞き手の解釈が間違い」という申し立てとなってしまったのだ。「タックルをしろというようなことは、私からの指示ではない」という言い訳は言語道断である。私も、文化について優劣を付けたくはない。しかし、聞き手責任文化が、安倍夫妻や日大前監督など、結局は権力を握った人間の責任回避の道具に堕する可能性があるならば、改めるべき習慣なのかもしれない。

2018年5月19日土曜日

小保方晴子って何? ―某国首相夫人との類似


 数年前のSTAP細胞研究における一連の不正、博士論文における剽窃など、まさに研究不正のデパートというべき小保方晴子氏だが、その後、『あの日』や『小保方晴子日記』といった手記を出版し、何とグラビアにまで登場という理解できないことが起きている。

 バカバカしくて、2冊の本は読んでみたわけではないが、どうやらそれらの中で、不正の反省がなされているわけではなく、バッシング中の被害感情だけが述べられているらしい。それでもって今回のグラビア登場というわけで、改めて、本人に対してだけではなくメディアの商業的な姿勢に呆れてしまった。いまだに小保方シンパがいるのにも驚きで、研究不正がいかに悪いかということが世間で認識されていないということを改めて思い知らされる。某政治家の言い方を真似れば、「研究不正罪はない」なのかもしれないが、セクハラと同じように、犯罪でなければよいというものではない。研究不正の被害の大きさは、すでに127日のiPS細胞の研究不正について―尾木直樹氏の発言への違和感」で書いているが、目に見えにくいかもしれないが、混乱と損害は著しい。

 インターネット上では「メンタル強い」とか「恥知らず」という表現が飛び交っているが、私は、小保方氏には「恥」よりも「罪」がわかっていないモンスターという印象をもっている。ルース・ベネディクトは『菊と刀』において、日本人は、「罪の文化」というよりは「恥の文化」であると主張している。私は、この主張に必ずしも賛成はできないが、小保方氏をみていると、「罪の文化」がおそろしく欠如した環境で育ったのではないかとしか思えない。「恥」は、他者からの非難への防御として進化したという点で、小保方氏にはバッシングの恐怖はあったようなので、そこで恥のようなものは感じたかもしれない。しかし、「恥」は、あくまで対人的なものなので、ちょっと周囲から同情が示されると消え去りやすい。一方、「罪悪感」のほうは、いくら周囲が慰めてもなかなか癒されるものではない。小保方氏の場合は、まさに前者のパターンで、「恥」はさっと消えてしまい、被害感情だけが残っているように思われる。「罪」は、その「恥」を内面化させないといけないのだが、どうやらその作業は小保方氏の心の中で行われることがなかったのだろう。

 小保方氏をみていると、自己顕示欲求が強く、辞書に罪悪感という項目が記載されていない人物像が描ける。で、ここまで考えて、ハタと思った。そうそう、某国の首相の奥さんと似てないか? 自分がしたことの重大性が理解できておらず、罪悪感は皆無、そしてバッシングされた被害感情だけが強く、自己顕示欲求が強くて出たがり。まさに同じだ。さらに両者に共通するのは、大学院教育を受けていて、それで自分が全く成長しなかったにもかかわらず、偉くなったと思い込んでいることかもしれない。某国首相夫人は、「大学院で教育を受けて自信がついた」とのたまわっておられるが、自信よりも見識を身に着けてほしかったと思う。また、小保方氏には、科学的研究を遂行する上での真実への怖れと謙虚さを学んでほしかったと思う次第である。ここ何年間かの間で大学院の重点化が進み、学ぶ人が増えたのは喜ばしいが、モンスターを野に放つのだけは勘弁して欲しい。

付記
 小保方氏と某国首相夫人の類似は、精神科医の片田珠美氏がすでに指摘されていました。ネットで検索してわかりました。二人とも「罪悪感をどこかに置き忘れた」というのは、たしかに片田氏のおっしゃる通りです。

2018年5月17日木曜日

白い皮膚の遺伝子?-NHKスペシャル人類誕生第2回(2)


 これまでの私の授業や講演等において比較文化の話をさせていただいたとき、文化差を説明するものとして、遺伝子頻度の差異、文化的伝統の差異、地勢・気候・生態学上の差異が考えられると述べてきた。しかし、私の専門領域である知性、推論、思考のスタイルの文化差については、遺伝子頻度の差異による説明はほとんどありえないと説いてきた。そうすると、必ず出てくる質問・疑問は、世界の人々は民族によって髪や目、皮膚の色などこれだけ遺伝子によって異なるのに、なぜ知性や推論・思考を支える脳の遺伝子の差異はありえないのかというものである。

 形質の民族差について考えられる仮説に、ホモ・サピエンスが地球上のさまざまな土地に拡散していく過程で、ある遺伝子集団で、特定の特徴をもつごく一部の人たちだけが生き延びるようなボトルネック的淘汰があったという説明がある。たとえば、太平洋の島嶼部に住む人々は比較太っている。島嶼部へのホモ・サピエンスの拡散の歴史は比較的新しいが、それでも島にたどり着くまで、あるいはたどり着いてから生存するのに過酷な飢餓があり、皮下脂肪をためやすいごく一部の人が生き延びたというように説明できる。一方、知性、推論、思考のスタイルの文化差については、67万年の拡散の歴史の中で、特定の知性あるいは特定の思考スタイルをもった少数の人たちだけが生き延びたということはほとんど考えられないので、遺伝子頻度の差ではないというのが説明である。

 同じように、ヨーロッパ人が白いという理由は次のように説明できる。アフリカで進化したホモ・サピエンスは黒かったのだが、氷河期のヨーロッパに移住していく中で、弱い日光の下で皮膚が黒いとビタミンD不足等が起きて、生殖年齢まで生存することができない。そうした環境で、皮膚が白いごく一部の人だけが生き延びて、現代のヨーロッパ人ができあがったというわけである。

 しかし、ヨーロッパ人の肌の色について、突然変異と自然選択でかくも短期間で急激に変化したのだろうかという疑問は常にあった。変化が、性選択によって加速されている可能性 (つまり、肌の白さは、皮膚病がないことを示す特徴として、異性にモテて子孫を残しやすかったということ) は高いが、それでも限界があろう。それで、DNA研究で最近明らかになってきたことが、色が白かったネアンデルタールとの交配である。この点についての10年程前の議論では、交配は否定できないが、そこで生まれた子どもはどちらのグループにも属さないとして、子孫を残すチャンスはほとんどなかっただろうというのが暫定の結論だったと思う。しかし、513日のHNKスペシャルによれば、現在、アフリカ以南に住む人々以外、数パーセントの遺伝子がネアンデルタール由来であることがわかっているようだ。番組では、ヨーロッパ人の肌の色については触れられていなかったが、どうやら肌の色の遺伝子は突然変異というよりは、ネアンデルタールからもらったものが関与している可能性が高そうである。ここ10年来の個人的な疑問にちょっと答えが見つかったかもしれない。

2018年5月14日月曜日

ネアンデルタール人絶滅―NHKスペシャル人類誕生第2回(1)


 513日放映の、HNKスペシャル人類誕生の第2回目は、ネアンデルタール人の絶滅がテーマだった。このテーマは以前から興味があったが、ここ何年かかの考古学やDNA研究の驚くべき進歩から、新発見が次々に現れていると聞いていた。しかし残念ながら、専門家でもない私は、さすがにそのような論文の追跡は無理なので、こういうテレビ番組で紹介してもらえるとありがたい。

 ネアンデルタールは、コミュニケーション能力が劣っており、ホモ・サピエンスとの適応競争に敗れたというのが定説だった。しかし、番組の中では、最近の研究では、どうやら高い知性ももっていて言語も使用していたということも推定されていると紹介されていた。これまでの、ネアンデルタール人の知性が劣っていたとされる説はかなり否定されていることになる。ネアンデルタールと比較して、唯一、ホモ・サピエンスが優れていた点は、集団の大きさであるらしい。一般に、集団が大きいと協力の規模も大きくなり、また道具のイノベーションも進む。35万年前は文化のビッグバンの時期でだが、集団規模が大きくなって、個人による工夫や発明が、次々と集団内で共有されるようになり、共有されるとさらにそれが改良されるという好循環を生むようになり、狩猟等の道具が劇的に改良されていったようだ。それによって、ホモ・サピエンスは、氷河時代末に起きたハインリッヒイベントと呼ばれるヨーロッパの寒冷期を乗り越えたが、ネアンデルタール人はできなかったというわけである。少なくとも、ネアンデルタール人の知性が低くて、ホモ・サピエンスとの戦いに敗れたという可能性は極めて低かったようである。

 番組では、ホモ・サピエンスにおけるこの集団の巨大化について、このプログでも紹介したロビン・ダンバーが、宗教等の重要性を説いていた(20171123日の記事「ダンバー数を超えて)たしかに、宗教等によるトランスは、大集団をまとめるのに役に立つ。しかし、それでは、大集団化させる宗教はなぜホモ・サピエンスだけに可能で、ネアンデルタールからは生まれなかったのだろうか。ネアンデルタールとホモ・サピエンスのこの大分岐を生み出した違いは、偶然によるちょっとした差なのだろうか。それとも、定説よりも知能が高いとされたネアンデルタールにも乗り越えることができなかった壁があったのだろうか。とくに、集団を形成する上で、「心の理論」は重要だが、ネアンデルタールの「心の理論」はどの程度だったのだろうか。これについては番組では全く触れられていなかった。「わからない」というのが現状なのかもしれない。

2018年5月3日木曜日

「西郷どん」の視聴率低下―感情の押し売り?


 NHK大河ドラマ「西郷どん」の視聴率が低下している。これまでの大河ドラマの面白さと視聴率は必ずしも一致しているわけではないが、「西郷どん」については、私の中でも評価がちょっと下がりつつある。その大きな理由は、21日の記事、
でも触れたが、何かが余っているからである。

 西郷は、かなり感情が豊かな人物であったらしいことは、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」をはじめとするいくつかの評伝で記されている。その感情エネルギーが人々を引き付けて、そのことが、明治維新最大の功労者の一人になったこととも、西南戦争で暴発した人々に身を任せたこととも結びつくだろう。

 しかし、「西郷どん」では、西郷の感情面を描き過ぎではなかろうか。感情豊かであるということを示すような、史実と関係がないようなエピソードがこれでもかこれでもかと登場すると、少々うんざりしてしまう。たとえば、「ふき」という架空の少女を登場させて、彼女の貧困に対しておそろしく同情を示すエピソードを入れたり、井伊の刺客を殺してしまったことで延々と涙を流す場面があったりと、これだけ西郷の感情がほとばしるシーンを見せられると、「優しさ」の押し売り感を拭い去れないのだ。

 好みもあるだろうが、歴史ドラマは、むしろ淡々と叙事的に物語を運ばせたほうが凄みが増す場合もある。あくまで歴史的できごとを叙事的に描くという手法をとり、主人公をはじめとする登場人物の心の中は、視聴者の想像にまかせるわけである。視聴者側にも、登場人物がどのような感情を抱いているのか推測する楽しみが残される。「おんな城主直虎」にしても「真田丸」にしても、感情を発露させるシーンは比較的少なく、俳優たちが表情だけで心中を表現しているのが印象的であった。名優と呼ばれる俳優は、演ずる人物の微妙な感情の動きから、自分で自分の感情がわからないという状態までも巧みに演ずることができるはずなので、「西郷どん」でもそれを脚本や演出でもっと活かして欲しいものだなと感じている。

 私の中で評価が高い1990年の大河ドラマである「翔ぶが如く」も、叙情的というよりは叙事的であった。しかし、それでも実は非常に違和感を抱いたシーンが記憶に残っている。それは、鹿賀さんが演じた大久保利通が、それまで不俱戴天の仇のようであった島津久光に取り入ろうと決心した時のモノローグである。ドラマでは、久光が好きな囲碁を学んで、久光に近づこうという決心を、その場にいない西郷にモノローグ的に語るというシーンだったと記憶している。この決心は、わざわざモノローグにする必要がなく、感情を殺して久光の側近になろうとしたほうが、凄みがあったのではないかと当時残念に思った。すでに30年近く経つが、今でもこの感想は変わらない。

2018年5月1日火曜日

北朝鮮はどうなるのかー板門店での歴史的会談

 一触即発の北朝鮮だったが、なんと金正恩総書記と文在寅大統領の歴史的な会談が板門店で実現し、懐疑的ではあるが、金正恩は核放棄の約束までしてくれた。非常に驚きだが、おそらく徹底的な経済制裁でどうにもならなくなったところで、文在寅が差し伸べた手に金正恩がすがったというのが実情ではないだろうか。もし、トランプと文在寅が示し合わせてやったとすれば、なかなかの戦略だが、このアメとムチは効果的だったのかもしれない。

 北朝鮮については、本当に核を放棄するのかとか、拉致被害はどうなるのかなど、問題は山積みである。私は、統一が本当に可能かどうか、もし統一されるとするとどんな形での統一がありうるのかを思案してみた。比較されるとすれば、旧西独と旧東独の統一である。この統一は、統一と呼ばれつつも事実上は旧西独による旧東独の併合だった。旧東独のホーネッカー書記長は、冷戦犯罪については訴追を免れたものの、最後は亡命生活を送り、亡命先のチリで死んでいる。また、統一にあたって、多くの旧東独の人たちが職を失った。

 北朝鮮と韓国の統一がなされた場合、文在寅はどのような経済的支援を金正恩に約束しているのか、さらには実際にはどの程度の支援が実施されるのか予測はつかない。問題は金正恩の処遇であろう。金正恩には、ホーネッカーと比較しても、政治的独裁者としての犯罪は計り知れない。強制収容所の政治犯とされた人たちはすぐに解放されるのだろうか。彼らへの迫害の責任はどうなるのだろうか。あるいは脱北を試みた人たちの殺害の責任もある。これらを考慮すると無事では済まされないはずだが、まさかそれを金正恩が納得した上で会談を行ったり統一の可能性を検討したりしているとは思えない。

 金正恩がなぜ統一を視野に入れた会談に応じたのか。もちろん、経済制裁や強権的独裁によって、金正恩自身の命の危険性が高まり、命さえ助けてもらえるならありがたいと応じた可能性もある。しかし、私の妄想だが、もう一つの可能性として考えられるのが、金一族の特別待遇である。金の家系は、抗日独立の最功労者であるとし、天皇あるいは貴族のような位置に置くわけだ。そして、ちょうど日本の天皇が戦争責任を問われなかったように、金正恩にも政治的犯罪を不問にするという筋書きを作るわけである。文在寅なら、これくらいのことは言いそうな気がする。しかし、それで金一族に欺かれていたと気がついた北朝鮮国民が納得するかわからないし、国内的にも国際的にも、政治犯とされた人々への迫害や、拉致などの罪は許されないはずである。で、その最悪のシナリオは、これらの罪をすべて末端の人々にかぶせてしまうことだ。北朝鮮情勢に精通しているわけでもない素人の妄想だが、ちょっと真実味がないだろうか。