2023年4月30日日曜日

少子化についての素人的私見(1)―産業国での普遍的傾向

  岸田政権が、少子化問題への対処として、異次元の子育て支援を打ち出している。この少子化は、産業国において共通の問題になっている。かつての、豊かな家族ほど子どもを育てる余裕があって、その結果子どもの数が多くなるという大原則とは逆に、産業革命以降は、豊かな国あるいは豊かな家族において少子化現象が普遍的に見られるようになっている。

 このメカニズムは、次のように説明できる。まず、産業化によってその中で豊かになるためには教育が重要になってくるが、実際、産業革命以降は豊かな家族が増えて、子どもに教育を受けさせる経済的余力が生じてくる。しかし、子どもに教育を受けさせると労働力としての収益が失われるので、経済的余力がそれを上回らなければ教育は難しい。それが可能になる家族が増えるのは産業革命以降であり、教育投資への動機は、教育を受けるか否かでその後の収入に大きく差が生じてくると、ますます強くなる。

 さらに、豊かになると平均寿命が長くなり、かつ子どもの死亡率が低下する。そういう状況で、自分の老後に子どもが一人もいなくなる(したがって、養ってもらえなくなる)というリスクが低下し、かつ一人当たりの教育にコストがかかるようになると、自然と少子化に向かうようになる。豊かになっても、多くの子どもがいると均等に高等な教育を受けさせると、コストが大きくなってくるからである。さらに、産業化によって女性が担当不能な肉体的労働の比率が低下し、女性の平均的賃金の上昇とともに女性の仕事場が家庭から社会にシフトし、それが出生率の低下を促進した。実際、19世紀の初めころは男女で大きな識字率の差があったが、それが20世紀になると随分と小さくなってきている。識字率は社会進出の指標たりうる。女性の賃金が上がれば家族の収入増となり、子どもの数を増やすことができるはずなのだが、晩婚化や出生率の抑制の影響の方が強く現れてしまっているのが現実だ。さらに、子どもをもつことが女性のキャリアに負の影響を与えるようになると、子どもを持たないという選択肢が増えて、ますます少子化が促進されるようになる。

 人々が豊かになっていく途上において、ゆるやかな少子化は、決してマイナスではなかったはずである。多産多死の社会よりも、少産少死の社会のほうが、一人一人の幸福という点でははるかにましである。それを考慮して、少子化に対して、どの国も当初は問題視してこなかった。日本も、この国土で1億3千万人に迫ろうとしていた人口は少し多すぎるのではないかという懸念があり、当初はむしろ少子化は歓迎気味だったのではないかと思う。減ってもまた増えるという楽観主義があったことも否定できない。そうした中で、労働力の減少や高齢者割合の増大など、近未来に生ずる大きな問題として取り上げられるようになった。少子化問題は、温暖化問題とともに、現代の人類の大きな問題となりつつある。しかし、産業化による女性の社会進出に歯止めをかけるという方向にだけは向いてほしくはない。

2023年4月14日金曜日

プレスリリースー日本人・中国人のコミュニケーションスタイルを解明

  私の研究室の大学院生の呉長憶さんを筆頭著者とする論文が、Wileyから出版されている国際誌のGlobal Networks3月末にオンライン掲載され、大阪公立大学からプレスリリースしていただいた。以下がその内容で、本ブログでも紹介したい。

 

 人々がコミュニケーションを行う場合は、話し手と聞き手が共有する情報であるコンテクストを利用します。このコンテクストの依存度には文化差があると考えられ、西洋人は依存度が低い『低コンテクスト文化』、東洋人は依存度が高い『高コンテクスト文化』とされてきました。

 大阪公立大学大学院 文学研究科 呉 長憶大学院生と山 祐嗣教授の研究グループは、高コンテクスト文化とされている日本人および中国人は、相手国の人とコミュニケーションを取る際、高コンテクスト文化から低コンテクスト文化にコードスイッチングしていることを明らかにしました。さらに、日本人は、日本で生活している中国人留学生に対しては、コードスイッチングをあまり行わないことも明らかとなりました。本研究により、人々が異文化間コミュニケーションを行う際は、低コンテクスト文化である可能性が高いことが示唆されたと同時に、低コンテクスト文化は異文化交流が多い環境で形成されやすいことも示唆されました。

<研究の背景>

 人々がコミュニケーションを行う場合は、話し手と聞き手が共有する情報、すなわちコンテクストを利用します。たとえば、友人を花見に誘う場合、日本人相手なら、「花見に行かない?」というだけで意図を理解してもらえます。その理由は、花見とは何かからその雰囲気まで、コンテクストとして共有されているからです。コミュニケーションにおけるこのコンテクストの依存度には文化差があると考えられ、西洋人は依存度が低い『低コンテクスト文化』、東洋人は依存度が高い『高コンテクスト文化』とされてきました(e.g., Hall, 1976; Meyer, 2014; Yama & Zakaria, 2019)。いわゆる、阿吽の呼吸は典型的な高コンテクスト文化のコミュニケーションスタイルです。

 従って、日本人も中国人も同じ東洋人として高コンテクスト文化圏のはずですが、先行研究において『日本人は、中国人のコミュニケーションスタイルが、西洋人と同じように低コンテクスト文化であると信じている』という主張があります(山科, 2018)。私たちはこの理由を、日本人は比較的他国の人々より中国人と接点があると同時に、中国人は日本人とコミュニケーションを行う際にコンテクストが共有されないことを考慮しているためではないかと推論しました。この解釈の背景には、低コンテクスト文化は、異文化コミュニケーション時に生じやすいとする主張(Gudykunst, 1991; Ting-Toomey, 1999)と、人々が異なるコミュニケーションスタイルに対応する際の適応行動として、高コンテクスト文化と低コンテクスト文化をコードスイッチングするという主張(Zakaria, 2017)があります。日本人ではなく中国人を誘う場合は、花見とは何かの説明をくわえるわけです。そこで本研究は、この解釈について検証することを目的に実施しました。

<研究の内容>

 本研究では、コンテクスト依存度を測定する17項目の質問紙(Richardson & Smith, 2007)を用いて、日本人大学生(65名)と中国人大学生(80名)、日本で生活している中国人留学生(50名)を対象にアンケート調査を行いました。各グループは、各質問(「伝えたいことを全部言葉にしなくても、聞く人は話す側の意図がわかるはずである」など)に対して『自分自身はどの程度当てはまるか』『自国民はどの程度当てはまるか』『他国民(日本人なら中国人、中国人および中国人留学生なら日本人)はどの程度当てはまるか』を回答しました。

 その結果、日本人学生と中国人学生では、相手国の人々を低コンテクスト文化であると判断していることが明らかとなりました。つまり、相手に対して自分の国の常識を知らなくても大丈夫なように、コミュニケーションスタイルのコードスイッチングを行い、互いに相手を低コンテクスト文化と判断したわけです。しかし、これらの違いは中国人留学生には見られませんでした。つまり、すでに日本とコンテクストを共有している留学生には、日本人は低コンテクストスタイルにコードスイッチングをする必要がなくなった結果と解釈できます。

 これらの結果は、人々が異文化間コミュニケーションを行う際は、低コンテクスト文化的状況である可能性が確認されたと同時に、低コンテクスト文化は異文化交流が多いような環境で形成されやすいことを示唆します。さらに、異文化コミュニケーション時にコードスイッチングを行うことも示唆されました。

<期待される効果・今後の展開>

 この研究には、理論面と実用面の2つの意義があります。理論面としては、高低コンテクストという文化の違いがどのように生まれるのかについて、生態的・地勢的な説明理論に発展させることが可能です。本研究によって、異文化交流時に低コンテクスト文化的コミュニケーションスタイルが用いられやすいことが示されましたが、古代ギリシャのように異文化間の交流が盛んで、1つの文化に統一されにくい地勢的環境で低コンテクスト文化が生まれやすいとする理論に発展させることができます。これが、西洋の低コンテクスト文化の源流となっていると推定できます。

 また、実用面としては、効率的なコミュニケーションの促進に示唆を与えてくれます。高コンテクスト文化の人は、低コンテクスト文化の人とのコミュニケーション、あるいは異なる高コンテクスト文化の人とのコミュニケーションにおいて、誤解や葛藤がよく起こります。これは対人関係に悪影響を及ぼします。したがって、相手の話し方に合わせて自身のコミュニケーションスタイルを変えることは、コミュニケーションの質を改善するために非常に重要です。今後は、人々の生活適応能力、コンテクスト依存度、コードスイッチング能力の三者間の関連性について、検討を加えていきます。

2023年4月1日土曜日

ウクライナ侵攻―ユートピア・イデオロギーの復活と経済的相互依存の脅しへの利用

  スティーヴン・ピンカーは、『暴力の人類史(The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined)』の中で、2011年時点で21世紀になってから世界において戦争が終結した理由の中に、「ユートピア・イデオロギーの弱体化」と「経済的相互依存の増大」があることを指摘している。しかし残念なことに、ロシアがウクライナ侵攻を始めてすでに1年以上が過ぎ、「戦争がない世界」とはとてもいえない状態になってしまった。現在の侵攻は1年余かもしれないが、2014年のクリミヤ侵攻からの継続ならば、すでに10年近く経っているといっても過言ではない。これまでのさまざまな報道から、ロシアにおいて、ユートピア・イデオロギーがこの10年で強くなっていること、経済的相互依存を他国への脅しとして使用していることが明白になっている。

 ユートピア・イデオロギーとは、「世界は~のようなユートピアになる」という共同幻想である。これはプラスに働く場合もあるが、第二次世界大戦時の日本の「大東亜共栄圏」や、ドイツの「ゲルマン民族の純潔が守られた国」というイデオロギーは、とんでもない結果をもたらしている。プーチン政権の場合は、ソビエト連邦というよりは、偉大なるロシア帝国の復活のようだ。ソビエト連邦の崩壊の後、ロシアは経済的に大混乱に陥った。それを独裁的な手法で立て直したのがプーチンであり、またロシア国民もそう信じている。そうすると、プーチンにとってこの独裁を維持する上でも、「偉大なるロシア帝国」ユートピア・イデオロギーは非常に都合がよく、また、国民がそれを信じやすい状況が生まれているといえる。ちょうど、明治維新の後の日本が独裁によって富国強兵という目標に邁進し、ある程度の軍事強国になって「大東亜共栄圏」というユートピア・イデオロギーが生まれた状況と似ているかもしれない。プーチンには、西側によってソビエト連邦が崩壊されたというル・サンチマンがあるようだが、明治維新後の日本も、西洋列強によってアジアが虐げられたという負の歴史への復讐が標榜されており、非常によく似ている。

 経済的相互依存は、本来なら戦争のストッパーになるはずである。経済的相互依存が強くなれば、隣国との戦争は、たとえ勝ったとしても経済的には失うものの方が大きいからである。ところが、ロシアは石油や天然ガスなどの豊かな資源を武器に、相互依存状態の国々に対して、脅しに利用している。これはウクライナに対してというよりは、ウクライナを支援しそうなヨーロッパの国々に対して用いられている。プーチンは、とくに、ノルドストリームの恩恵を受けているドイツはロシアに対して強硬な態度をとらないと予想していたようだ。

 ユートピア・イデオロギーの弱体化と経済的相互依存は、戦争の抑止として重要であることは変わりはない。しかし、独裁者の前では脆いということが実証されてしまった。とくに後者は、独裁者によって脅しとしての武器になることが示されたことは、経済のグローバル化にとって非常に残念である。

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