この危機の背景には、研究費や人員の削減などの要因があるが、大学の現場が最も翻弄されるのは、ほとんど意義を感じられない「改革」である。カリキュラム改革、入試改革、組織改革など、いったいどこに目標があるのか不明確だったり、あるいはあったとしてもほとんど魅力を感じない目標であったりして、その改革のための作業に疲弊するのである。ましていわんや、改革に乗じて自分あるいは自分の部署の都合の良いように画策する人間がいたりすると、そちらにも目を光らせなければならない。このような「改革」があったりすると、半年から1~2年は落ち着いて研究に取り組めない。それも30年の教員・研究者人生で1~2回ならまだしも、「改革」にしょっちゅう振り回されていると、「私の研究人生を返して欲しい」と叫びたくなる研究者も多いだろう。
私が所属する大阪市立大学も、大阪府立大学と2022年に合併するという大きな「改革」があるが、この半年ほどその準備に翻弄されている。わたしはそもそも現状のどこに問題があるのかわからないし、合併にかけるコストと合併後に生ずるさまざまな問題を考慮すれば、決して合理的な判断ではないと思える。「20年後、30年後を見据えればメリットがある」という意見もあるが、おそらく合併後に生じてくる問題のために、また「改革」を繰り返して振り回される教員を増やすだけではないだろうか。
5年前に馳浩が文部科学大臣に就任したときのインタビューで、やるべきことを質問されて、高大接続と大学入試改革と答えたときには、呆れを通り越して背筋が冷たくなってしまった。高等学校や大学の教員がこれだけ時間がなくて疲弊しているなかで、また「改革」? 高大接続の理念に答えようとすると、教員の資質の向上が重要だが、これ以上に「改革」で疲弊させるのだろうか。また、大学入試は大学教員を疲弊させる要因の1つだが、また「改革」でいじるのだろうか。高等学校の現場、大学の現場に加えて、研究の意義と重要さを理解していない人間が文部科学行政のトップに立つ怖さを改めて感じたことを鮮明に記憶している。
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