2020年8月27日木曜日

「自粛警察」からの安易な日本人論

 まだまだ安心はできないが、新型コロナウイルスの新規感染者の爆発的増加は一段落し、ちょっとほっとしている。しかし、この流行の中で生まれた言葉が「自粛警察」である。マスクをしていない人に暴言を吐くとか、オープンしている店に対して張り紙をするとか、そういった一連の嫌がらせの総称である。この自粛警察現象について、最近、非常に安易な日本人論が目に付く。

 戦時中あるいは関東大震災時の自警団の連想ならまだしも、そこからこれがあたかも日本人の国民性 (実は、私はこの「国民性」という用語が嫌いなのだが) であるかの如く、話が空想力豊かに拡がっているのである。東洋人の集団主義文化という先入観からか、日本人は同調圧力に弱いなどの言説が独り歩きし、比較文化研究等でほとんど聞いたことがない日本人論を突き付けられると、またもや国民性ステレオタイプが生まれるのかとため息が出る。

 もし自粛警察が日本人特有の現象だとすれば、このような自粛警察はどのような適応課題を解決するのかを分析する必要がある。このような分析は、適応論の王道である。最も大きな課題は「感染者を増やさない」ということだろうが、そういう状況で、リヴァイアサン、すなわち規則を守らせるための大きな権力が空白になると、自警団が生まれやすい。取り締まってくれる権力が弱ければ、自衛しなければならないわけである。実際、日本では都市のロックダウンもせず、いろんなルールを守らなくても大きな罰則はない。こういう状況では、他者にルールを守らせようとする自粛警察が生まれるのは、非常に自然な帰結といえる。関東大震災という混乱時に自警団が暴走したのも同じ理由である。

 これは、ちょうど、アメリカ南部において「名誉の文化」が生まれたのと同じメカニズムであろう。つまり、南部では連邦政府の力、すなわちリヴァイアサンが地方まで及ばなかったので、人々は自分で自分を守らなければならなかった。そこで殴られたら殴り返すという名誉の文化が生まれたと考えられるのである。殴った相手を罰するリヴァイアサンがないため、殴り返さなければ後々まで弱い立場に曝されてしまうわけである。また、住民による犯罪者に対する集団リンチも多かったのも南部である。自粛警察も同じ原理で起きていることが理解できるだろう。

 江戸幕府が行ったように、厳格に規則を守らせるリヴァイアサンを作らずに相互監視によって規律を守られるというのは日本の伝統的慣習かもしれない。これによって何らかの国民性が形成されているのか、あるいは元々そういう国民性があったがために相互監視ができたのかはわからない。しかし、これを「民度の高さ」という政治家は論外だが、ポジティヴにしろネガティヴにしろ日本人の国民性イメージを植え付けようとする言説には反対である。比較文化研究者のこれまでの努力を踏みにじるような国民性ステレオタイプへの結びつけは、日本人とは何かという問いに答える有益性よりも、有害性のほうが大きい。「自粛警察」を、リヴァイアサンの欠如への人類の普遍的な反応として説明できるなら、そこには「国民性」が入り込む余地はない。

0 件のコメント:

コメントを投稿