2019年1月30日水曜日

米国によるイラン制裁の影響が自分にまで及ぶとは


 米政府は、2018114日に、これまでの中で最も強力なイラン制裁を発動したようだ。イラン国営企業からの原油、石油製品購入、イランの中央銀行や指定銀行と外国金融機関による代金決済取引など、イラン貿易にとって重要な活動が禁止されるようである。イラン制裁については、アラブ諸国との紛争以外に、国内での人権抑圧などさまざまな問題に加えて、核開発が大きな根拠になっているようだ。しかし、私自身を含めて多くの日本人にとって、それで原油の価格が上がらないかどうか程度の関心しかないだろう。

 まさかそれが自分にまで及ぶとは考えもしていなかった。 現在、米国の某出版社から出版される専門書の編集を行っているのだが、先日、その担当の方からお知らせメールをいただいた。この米政府の決定に従い、編者や執筆者の中にイラン人がいると、その書籍は出版できないということのようだ。幸い、現時点でイラン人の執筆者はいないので、おそらく特に問題は生じないとは思う。しかし、こういう状況での反実仮想の常として、もしイラン人が執筆者に含まれていたらどうしただろうかと考え込んでしまった。出版の自由の侵害として、出版社に抗議するだろうか。イラン人執筆者に理由を述べて降りてもらうだろうか。まあ、とりあえずは、イラン人執筆者がいたらなぜまずいのかをもっと詳しく聞いた上での判断ということになるだろう。

 この制裁に対しては、EU加盟の、英国、ドイツ、フランスはいずれも反対している。イランと「合法的なビジネス」を行う欧州企業を支援するために、問題視されているSWIFTに代わる決済手段があれば、米国の制裁を回避しながら取引ができるようになると考えているようだ。

 それにしても、この114日の決定について、日本では、産経新聞やビジネス系の新聞以外で、あまりこのことが取り上げられていない。この制裁について、反対するにしろ、賛成するにしろ、根拠を述べながら論述するような記事が少なくて、日本人の関心を集めていないことが残念である。

2019年1月19日土曜日

歴史歪曲禁止法―イデオロギー優先である限り怖い

 積弊清算をモットーとする文在寅の姿勢に、嫌韓ではなかった日本人の間にも、日韓関係の危機感を感じ始めている人が増えている。照射問題よりも、個人的に怖いなと感じているのが、昨年の12月に与党である「共に民主党」から国会に提案された「歴史歪曲禁止法」という新しい法律である。これは、日本の植民地時代を賛美、歪曲する団体と個人を刑法で処罰するという法案で、具体的には慰安婦被害者をはじめ、日本の植民統治と侵略戦争行為に対して歪曲・賞賛・鼓舞または宣伝する者を罰するための制定のようだ。

 10年以上前、ちょうど廬武鉉が大統領だったが、私が韓国政府の基金でソウルに滞在した時である。北朝鮮とも交流が進み、北朝鮮も遠くない未来に徐々に民主化されるのではないかと私が楽観的に期待していたころである。ある先生が私の楽観論に釘をさした。「廬武鉉は怖い」と。また、日韓関係も、植民地時代を経験しなかった世代が韓国の中心になれば、もっと改められるのではないかと思っていたが、何名かの先生の意見は、「もっとやっかいになるかもしれない」というものだった。つまり、植民地時代を経験した人たちは、廬武鉉政権で喧伝されていた植民地の悲劇的イメージを、「それほど悪かったわけではない」と指摘することができたのだが、その世代がいなくなると怖いという。奴隷状態のような印象だけが誰にも修正されずに独り歩きする可能性が生じてくるわけだ。

  現在、文在寅政権は、朴槿恵政権下で慰安婦合意と徴用工裁判に関与した人物に対する検察の調査を進めていて、慰安婦合意を主導した李丙ギ氏は拘束され、尹炳世元外相は徴用工裁判に関与した疑いで検察の捜査を受けているようだ。「歴史歪曲禁止法」が成立すると、このような人々が取り締まりの対象となる。植民地時代の日本の統治がどのようなものであったのかという科学的な研究ができなくなり、『帝国の慰安婦』の朴裕河氏なども自由な発言が著しく制約される可能性が高い。

  ヨーロッパにおいて、ホロコースト否認は多くの欧州の国において違法とされるようになった。おそらく、文在寅はこれをモデルにしているのだろう。しかし否認を違法とするこの背景には、言論の自由の両立とのジレンマを抱えながらも、ユダヤ人差別を肯定する極右の台頭に対して危機感を感じていたという状況がある。また、ホロコーストは、植民地や戦争において偶発的に起きた虐殺あるいは暴虐とは異なり、ある思想団体が意図的に民族浄化を試みたというとてつもない人類的犯罪である。これと、植民地支配を同列に並べても無理があるのではないだろうか。さらにイスラエルには、外国に対して「ホロコースト否定論者」の身柄引渡しを要求できる「ホロコースト否定禁止法」がある。まさか文在寅はここまでは真似しないと思いたいが、昨今の状況を見ていると、楽観は禁物である。

  しかし、韓国にも廬武鉉や文在寅に対する批判的な人々も多い。怖くて声をあげることができないだけである。したがって、ビザ免除廃止のような強硬論には私は反対である。日本が問題視すべきなのは韓国人全体ではなく文在寅であり、言論の自由を後退させようとしているのは彼だとして批判すればよい。そんな中で私がほっとするのは、李洛淵首相の「日本は過去の前で、韓国は未来の前で謙虚な態度をとるべき」という発言である。この発言は、その前半部分が日本で批判されているが、よく見れば名言である。韓国は、日本が戦後に歩んできた道、つまり平和への価値を重んじ、韓国経済の復興に貢献したということを謙虚に認めるべきという主張である。政権の中からもこういう発言があるとほっとする。

2019年1月13日日曜日

LGBT差別の問題―平沢氏は論外だが、社会構築イデオロギーも手強い

 これまで性にまつわる差別問題というと男女差別であったが、ここへ来て、LGBTの差別問題がクローズアップされてきた。昨日、ある先生からうまい表現を教えていただいたが、男女差別が、スタジアムで巨人ファンを優遇するか阪神ファンを優遇するかという問題だとすれば、LGBT差別は、そのスタジアムからのファンの排除に相当する問題ということだ。つまり、LGBTは、スタジアムに入れてもらえることさえないわけである。

 男女同権主義者はリベラルな印象があるが、頑迷なイデオロギーに毒されるとLGBT差別に結びつく。男女同権主義者は、性差を、生物学的な差異ではなく文化構築によるものとすることを伝統的に好む。この試みは悪くはないのだが、「生物学的な性差はあってはならない」というイデオロギーによって、科学的な事実が捻じ曲げられてしまうと困ったことになる。たとえば、文化人類学のパイオニアであるマーガレット・ミードは、南太平洋には、「男性でも攻撃的ではない文化や、女性でも攻撃的な文化がある」という報告している。未だに講演会などで、これを引用しながら生物学的な性差はないのだと主張する人がいるらしいが、ミードのこの報告は現代では完全に否定されている(自分たちの嘘が世界的な人類学の教科書に記載されると想像だにしなかったサモアの人々に、ミードがからかわれたというのが真実のようだ)

 性差はすべて社会構築によるものだ(そして、それは、社会的に権力を握った男性による陰謀だ)と主張する人々の中には、性的違和(生物的な性と心理的な性が異なっている状態)を、なんと社会構築論の証拠と考える人もいる。つまり、たとえば身体は男性で心は女性という状態は、精神が生物学的メカニズムの結果である身体の影響を受けないので、性差は生物的ではないというわけだ。

 しかし、この論拠には根本的な誤りがある。家庭教育、学校教育などの社会構築の影響は、身体的特徴に応じて現れるはずである。つまり、身体的に男性とされる人は、家庭でも学校でも男子として育てられ、男性の価値観を刷り込まれるはずである。しかしLGBTは、それでもなお自分の身体としての性に違和感を感ずるわけである。つまり、精神における性的違和感は、社会構築で簡単に変更できるようなものではないのである。

 平沢勝栄氏のように、LGBTにとんでもない発言をする政治家は、人間の多様性を認めて個々人が幸福を追求する権利を持っているとする立場から、反駁は容易である。しかし、社会構築のイデオロギーに固まった男女同権主義者は、リベラルな仮面を装いながら、LGBT差別を疑似問題としてしまう可能性があってやっかいなのである。つまり、生物的性差を認めたくないというイデオロギーから、身体の性にあわせて精神を変更することは容易だという印象操作を行うわけだ。これは明らかに誤りで、有害である。LGBTをスタジアムに入れなくしていることと同義だということに気がつかなければならない。

2019年1月10日木曜日

ウェイソン選択課題における誤答は確証バイアスの証拠ではない

 思考心理学においてウェイソン選択課題が用いられた研究はかなり下火になり、私自身もここ10年程行っていないが、世間ではむしろ知られるようになってきており、ときどきネット記事でも見かけるようになった。代表的な例は以下のような課題である。
 表にアルファベット、裏に数字が印刷されているカードがあり、それらのうち、4枚が以下のように並べられている。

B    E    3    6

これらのカードにおいて、「もし表がBならば、裏は3」というルールが正しいかどうかを調べたい。そのためには、どのカードの反対側を見る必要があるだろうか。

 正答はB6なのだが、正答率は極めて低く、B3と答える人が非常に多いということが知られている。3は反対側のアルファベットを見る必要はない。反対側がBであればルールに一致するが、CであってもEであってもルールを反証するわけではない。このルールは、Bの反対側が3以外であるカードによって反証されるので、選択すべきは6で、反対側がBかどうかを調べる必要がある。

 このB3を選択する反応が、「人間には、「Bならば3」のようなルールを反証するのではなく確証する傾向がある」として説明されるのが確証バイアス説である。そして、この誤答が確証バイアスの典型例としてしばしば紹介されている。人間は自分の仮説を守りたがり、その仮説に一致する事例のみを探そうとする傾向を表すものとされている。愛煙家が「喫煙はガンとは関係がない」という仮説を守るために、ガンにならなかった喫煙者を探すのと同じだというわけだ。

 これには2つの誤解がある。第一は、確証バイアスには、このように自分の仮説を守りたいという動機論的要素はないという点である。また、確証バイアスという用語もここ10年程あまり用いらていない。確証バイアスの代わりに用いられるのが「肯定性バイアス」という用語で、これは仮説検証の効率的な情報探索の一つとして位置づけられている。

 第二は、ウェイソン選択課題の誤答は、確証バイアス説では説明されていないという点である。ウェイソンは当初はこの説を提唱したが (おそらく、この論文を読んだ人や論文が紹介された本を読んだ人が誤解しているのだろう)、すぐに弟子のエヴァンズとの共同研究によって否定している。エヴァンズは、もし確証バイアス説が正しいならば、上の例で、ルールを「もしBならば3ではない」にすると、人間は3ではない6を選択してルールが正しいことを確証するはずだと予想して実験を行った。しかし、このような否定文では3の選択が増加したということを報告した。この反応は正答になるが、これはあくまで偶然である。

 この結果からエヴァンズは、人間は、肯定文にしろ否定文にしろ、ルールに表示された「3」とマッチするカードを選択する傾向があるとして、それをマッチングバイアスと命名した。ウェイソン自身もこの説を支持しているので、確証バイアスの代表例としてウェイソン選択課題が紹介されると、現在では非常に大きな違和感を覚える。

 なお、備考になるが、いくら人間の推論がバイアスの影響を受けやすいといっても、マッチングのようなシンプルなメカニズムで高次な人間の推論を説明するにはやはり違和感が残る。そこで私は、最適選択というマッチングよりは合理性を伴う概念を援用して再検討した。マッチングバイアス説は完全に否定されなかったが、そのかなりの成分は最適選択によって生じていると推定している。

参考文献
 Evans, J. St. B. T. & Lynch, J. S. (1973). Matching bias in the selection task. British Journal of Psychology, 64, 391-397. 
 Wason, P. C. (1966). Reasoning. In B. M. Foss(Ed.), New horizons in psychology. Penguin. 
 Yama, H. (2001). Matching versus optimal data selection in the Wason selection task. Thinking and Reasoning, 7, 295-311.

2019年1月7日月曜日

レーザー照射をめぐる韓国の反応―非属人性が未成熟なのでは?


 文在寅が大統領に就任以来、日韓問題の再燃を懸念していたら、2018年末のレーザー照射に端を発した理解しがたい一連の事件が起きてしまった。慰安婦問題ほど尾を引くことはないとは思うが、一連のドタバタは、韓国にかなり好意的な日本の識者やメディアも、ほぼ100パーセント韓国側に責任があると考えているようだ。

 かたくなに照射を認めず、謝罪をするどころか、謝罪を要求してきたこの異常さの理由を、「反日を国是としている」や「恨の文化」などからも説明できるかもしれないが、非属人性の未成熟という点からも論ずることができると思う。1028日の記事でダグラス・ノースの『暴力と社会秩序―制度の歴史学のために』を紹介したが、彼は、アクセス制限型秩序―アクセス開放型秩序という区別を提案している。ここでいうアクセスとは、国民からの富や情報あるいは意思決定へのアクセスであり、民主的な国になるためには、アクセス開放型秩序に移行しなければならない。この移行のための重要な要因が非属人性である。つまり、法やルールなどが、人間に属するものから離れて、非属人的に運用されなければならないわけである。言い換えれば、誰がトップに立っても法の運用は同じでなければならないということが、非属人性である。

 実はノースの2009年のこの著作によれば、東洋では、中国だけではなく韓国もアクセス開放型秩序の国とみなされていない。個人的には私は、韓国は十分に民主主義の国と考えていただけに、引っかかるものがあった。しかし大統領が交代するたびに積弊清算という名のもとに前大統領や前大統領の下でさまざまなことに尽力していた人が罪に問われたり冷遇されたりする実態は、やはり、ルールなどが属人的であるということを示しているのかもしれない。積弊清算とは、長い間に積もった害悪を清算するという意味があるが、朴から文への大統領の交代とともに起きた一連の積弊清算はかなり惨かった。「正しいこと」が、大統領が交代しただけで変化するようでは、民主主義国家をつくることは難しい。その結果生ずることは、権力者に都合が悪いことは、白も黒と言いくるめることが日常化してしまうことである。

 2009年の時点で、ノースが韓国はアクセル開放型秩序ではないと判断した理由は、彼の著作の中で明示されているわけではないが、アルゼンチンなどの南米の国々などと同じように、アクセスの制限による経済活動における腐敗や不正が根拠のようであった。経済活動については私はよくわからないが、文大統領の積弊清算の惨さを見ると、やはり非属人性が未成熟という印象をもつ。韓国は恨の文化だとか、感情がルールを超えるといわれているが、恨みなどの感情はどこの国においてもあって人類普遍である。それが権力者を取り込んだ時に、その属人性からとんでもないことが起きると解釈したほうがいいのではないだろうかと思う。

2019年1月4日金曜日

情報戦―流血を抑止するために


 2019年が始まった。このような節目において、未来の不確実性と世界情勢の不安がしばしば議論されるが、巨視的に見れば、第二次世界大戦以降、確実に殺し合いとしての戦争は消滅しつつある。このブログで何度も触れてきたことだが、殺人、暴力、ジェノサイドも減少の一途をたどっている。

 戦争がほとんど起きなくなった理由はいろいろと考えられるし、このブログでもたびたび論じてきた。当然のこととしてこれまであまり触れなかった情報化について、少し述べてみたい。これまでの戦争は、基本的に相手の資源に代表されるモノの奪い合いで、たとえば太平洋戦争では、日本はスマトラ等の石油が欲しくて軍を進めている。しかし、現代の豊かさの基盤は、モノから情報にシフトしている。豊かさの鍵は、いかにすぐれたIT機器やプログラムを作成するかに左右されるようになっている。仮に、メキシコがアメリカに戦争を仕掛けてテキサスの油田を奪ったとすれば、自国が少しは豊かになるかもしれない。しかし、現代ではそれ以上の豊かさを生み出すのが情報である。かといって、メキシコがハイテク産業の集積地であるシリコンヴァレーを奪ったとしても、ハイテク企業や研究者に逃げられてしまえば得るものはほとんどない。戦争において実力行使によって奪える利益が、相対的に益々低下しているわけである。

 これは、流血がないということで人類とっては喜ばしいことなのかもしれないが、現代では、私たちには想像もできないような情報戦が起きているようだ。中国のIT企業であるファーウェイのCFOがスパイ疑惑ということで、カナダで逮捕されたが、この真相はどうなっているのだろう。これまで、何人かの海外の知人から、IT技術が劣っていることを自認している中国は必死に技術を盗もうとしているのではないかということを聞いた。経済力をつけた中国が、情報戦で優位に立ったら本格的に牙を剥くかもしれないと恐れている人は多い。日本はのほほんとしすぎかもしれない。

 何年か前に、コンピュータ開発の予算削減をめぐって、「2位じゃだめなんですか」という某政治家のセリフが有名になった。この発言の経緯について、私はよくわからないが、個人的には「だめ」だろうと思う。現在、コンピュータ技術は、情報共有やデータ解析などを通して、すべての学問分野の発展の基盤となっている。もちろん現代の豊かさの源泉でもあり、また災害発生のメカニズムなどを知るのにすぐれたコンピュータは欠かせないはずだ。コンピュータ技術が軍事に転用されるといわれると抵抗を感ずるが、流血の抑止としては、核よりははるかに健全なのではないかと思う。