2019年1月13日日曜日

LGBT差別の問題―平沢氏は論外だが、社会構築イデオロギーも手強い


 これまで性にまつわる差別問題というと男女差別であったが、ここへ来て、LGBTの差別問題がクローズアップされてきた。昨日、ある先生からうまい表現を教えていただいたが、男女差別が、スタジアムで巨人ファンを優遇するか阪神ファンを優遇するかという問題だとすれば、LGBT差別は、そのスタジアムからのファンの排除に相当する問題ということだ。つまり、LGBTは、スタジアムに入れてもらえることさえないわけである。

 男女同権主義者はリベラルな印象があるが、頑迷なイデオロギーに毒されるとLGBT差別に結びつく。男女同権主義者は、性差を、生物学的な差異ではなく文化構築によるものとすることを伝統的に好む。この試みは悪くはないのだが、「生物学的な性差はあってはならない」というイデオロギーによって、科学的な事実が捻じ曲げられてしまうと困ったことになる。たとえば、文化人類学のパイオニアであるマーガレット・ミードは、南太平洋には、「男性でも攻撃的ではない文化や、女性でも攻撃的な文化がある」という報告している。未だに講演会などで、これを引用しながら生物学的な性差はないのだと主張する人がいるらしいが、ミードのこの報告は現代では完全に否定されている(自分たちの嘘が世界的な人類学の教科書に記載されると想像だにしなかったサモアの人々に、ミードがからかわれたというのが真実のようだ)

 性差はすべて社会構築によるものだ(そして、それは、社会的に権力を握った男性による陰謀だ)と主張する人々の中には、性的違和(生物的な性と心理的な性が異なっている状態)を、なんと社会構築論の証拠と考える人もいる。つまり、たとえば身体は男性で心は女性という状態は、精神が生物学的メカニズムの結果である身体の影響を受けないので、性差は生物的ではないというわけだ。

 しかし、この論拠には根本的な誤りがある。家庭教育、学校教育などの社会構築の影響は、身体的特徴に応じて現れるはずである。つまり、身体的に男性とされる人は、家庭でも学校でも男子として育てられ、男性の価値観を刷り込まれるはずである。しかしLGBTは、それでもなお自分の身体としての性に違和感を感ずるわけである。つまり、精神における性的違和感は、社会構築で簡単に変更できるようなものではないのである。

 平沢勝栄氏のように、LGBTにとんでもない発言をする政治家は、人間の多様性を認めて個々人が幸福を追求する権利を持っているとする立場から、反駁は容易である。しかし、社会構築のイデオロギーに固まった男女同権主義者は、リベラルな仮面を装いながら、LGBT差別を疑似問題としてしまう可能性があってやっかいなのである。つまり、生物的性差を認めたくないというイデオロギーから、身体の性にあわせて精神を変更することは容易だという印象操作を行うわけだ。これは明らかに誤りで、有害である。LGBTをスタジアムに入れなくしていることと同義だということに気がつかなければならない。

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