2025年10月13日月曜日

神は迷信であると確信するが、罰せられたら怖いー第4回Human and Artificial Rationalities (3) での私の研究発表

  第4Human and Artificial Rationalitiesでは、私も発表を行った。タイトルは、 Easterners dialectical acceptance of religious contraction but not of general contradiction.で、新しい研究データというよりは、これまでの私自身の2つの研究結果の違いを、どのように説明するのかというものである。

 東洋人が弁証法的であると言われながら、相反する陳述に同時に賛成するか否かという比較文化研究はほとんどない。そこで、かつて大阪市立大学に研究生として在籍した張君は、たとえば「外国の文化を受け入れることは、グローバル化する世界に対応できる国になるために良いと思う」、「外国の文化を受け入れることは、古来の伝統文化や習慣・習俗が壊れるために良くないと思う」というような相反する陳述の両方にどの程度賛成するかという弁証法的思考を指標にして日本人、中国人、英国人を比較した。その結果、なんと日本人が最も弁証法的ではなかったのである。同時に行った「相反する2つの意見をきくと、大抵両方の意見に納得します」のような質問紙 (弁証法的自己尺度と呼ばれる) では、日本人や中国人の弁証法的傾向が、英国人のものよりも高かったにも関わらずである (このような結果は多くの比較文化研究で確認されており、東洋人が弁証法的であるという言説の根拠の1つである)

 しかし、私たちの宗教的弁証法の研究 (まだ学会発表を行っただけで論文として出版されたわけではない) では、「信仰は、人生の意味を与えてくれる」、「信仰が、人生の意味を与えてくれることはない」というようなやはり相反する陳述を用いて、この両方にどの程度賛成するのか日本人、英国人、フランス人を比較した。この研究の意図の一つは、現代における宗教と科学の両立に言及することである。その結果、日本人は、英国人やフランス人と比較して、宗教的材料ならば弁証法的であるということがわかったのである。神は迷信であると確信すると同時に、悪いことをして罰せられたら怖いという感覚が同居しやすいというわけである。

 さて、では、日本人の、この「一般的矛盾」では弁証法的ではないが「宗教的矛盾」において弁証法的になるという結果をどのように説明できるだろうか。現時点でこれを説明できる理論は、宗教的・哲学的伝統に依拠するもののみである。つまり、日本 (あるいは東洋) の思考的伝統には、道教の陰陽思想や仏教の無と縁起など、弁証法的発想が多く含まれ、その結果、東洋人が弁証法的になったという説明である。ところが、一般的陳述での盾においては日本人は弁証法的ではないという張君の発見を加味すると、この宗教的弁証法的思考は、一般的矛盾の受け入れという弁証法に転移することはないと推定できる。つまり、宗教的弁証法は、宗教的題材に特化した領域固有的な弁証法なのだ。現時点で、宗教的・哲学的伝統に依拠する理論は、東洋人の弁証法的傾向を説明できる有力な理論の1つである。しかし私自身の発表では、宗教的弁証法的思考が領域固有的だとすると、領域一般的な弁証法的自己を説明することに大きな疑問が生ずるという提案で締めくくった。この発表内容は、Springerの書籍の中の1つの章として出版の予定である。

 

Zhang, B., Galbraith, N., Yama, H., Wang, L., & Manktelow, K. I. (2015). Dialectical thinking: A cross-cultural study of Japanese, Chinese, and British students. Journal of Cognitive Psychology, 27(6), 771-779.

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