2025年3月29日土曜日

司馬遼太郎『ロシアについてー北方の原形』再読

  ウクライナ侵攻によるロシア側の死者はすでに95千人を超え、日露戦争時の8万人を上回っている。それでもプーチンが侵攻を止めないのはなぜなのか。さらには、これだけ経済的にボロボロになったロシアは、客観的にはこれ以上ヨーロッパに侵攻する体力が当分はないだろうと思える中で、東欧、北欧、バルト三国等がこれだけロシアを怖れるのはなぜなのか。このような問題を考えるヒントとして、司馬遼太郎の『ロシアについてー北方の原形』を再読した。この文庫本が出版されたのが1989年で、ベルリンの壁が崩壊した年であり、2年後にソビエト連邦が崩壊している。この後平和な世界が訪れることを予測した識者が多かった中で、本書には、現在のロシアを予感させるまさしく「原形」が描かれているように思える。

 ロシアは遅く成立した国である。「タタールの軛」と呼ばれるキプチャク汗国の支配を受け、ロシア人の国ができたのは、16世紀に入ってからである。そのためなのか、中国やヨーロッパの大陸国に見られるような、遊牧民族から住民を守る長城や城壁に囲まれた城塞都市があまり発展していない。軛の前には、ビザンチンの影響を受けたキエフがあったが、成熟した農業国家ではなく、大規模な城塞や長城を建設するには国力が弱かったのである。このことは、外敵の恐怖とその不安を取り除く方法が外への膨張であるという信念の共有に繋がっているかもしれない。

 ロシア帝国成立の上で、キプチャク汗国は敵だったかもしれないが、汗国からは多くの制度を継承している。それは少数の支配者が多数の被支配者を統治せざるをえない状況でのシステムで、1つは住民の隷属化、もう1つは隷属化を維持するための強力な軍事力である。汗国によるロシアの人々からの収奪は、遊牧騎馬民族による典型的な農耕民族支配で凄まじいものであったようだ。また、少しでも抵抗があれば、ジャムチを通してそれが中央に伝わり、天幕からの騎馬軍が急行して鎮圧された。

 ロマノフ朝は、これと似た制度を継承して、権力を確立・維持した。多くの農奴を抱えたが、農奴は貴族等に「所有」されており、所有者に生殺与奪の権利があった。日本や西欧の封建時代でも、領主がもっているのは徴税権であり、農民にまで所有権が及ぶわけではない。ここに大きな違いがある。ロマノフ家も、もとは貴族の中の一族に過ぎなかったが、ウラル山脈の東側のシビル汗国を滅ぼしてから勢力が大きくなった。シベリアへの膨張は、ヨーロッパで高く売れる黒貂の毛皮求めてということもあるが、ライバルとなる貴族に対して優越を保つための政治的東征であるともいえる。また、17世紀のシベリアの原住民は、ロシアにとっては毛皮獣を捕らせるための存在でしかなく、人間としての権利はほとんどなかったようである。

 このような背景に、ロシアのウクライナ侵攻という事実を重ね合わせると、残念ながらいくつかの特徴が浮き彫りになる。人命・人権を軽視して軍事力を重視し、独裁を維持して不安を軽減するために無謀であっても膨張をめざす。これがロシアの原形によるものだとすれば、世界はどのようにしてこの国と付き合うべきなのか、あるいは対処すべきなのかを真剣に考えていく必要がありそうだ。東欧、北欧、バルト三国の反応は、それを見越したものであろう。

関連記事

独裁者と膨張原理

「海洋時代」から「新大陸時代」へ?202258日毎日新聞の記事から

ロシア(ソビエト連邦)軍は、人命軽視の伝統があるのか?


2025年3月1日土曜日

トランプのプーチンへのすり寄り―2016年米国大統領選挙介入への返礼?

  2025年にドナルド・トランプが大統領に就任したが、ロシアのウクライナ侵攻 (そもそもトランプは「侵攻」という用語を使用していない) の停戦交渉において、おそろしくロシア寄りの提案を繰り返している。個人的には、戦争の継続には心が痛むが、軍事独裁政権による侵攻や軍事的圧迫は容認すべきではないし、世界全体において民主主義と正義は守らなければならないと考えているので、このトランプの姿勢には、非常に大きな憤りと不安を覚えている。

 トランプのこの姿勢はなぜなのか。日本のメディアでは、取引で物事を決めるトランプにとってウクライナの地下資源が最も重要であるとか、トランプの真の敵はロシアではなく中国であるとか、さまざまな議論が飛び交っている。ところが不思議なことに、2016年にドナルド・トランプが、民主党のヒラリー・クリントンを僅差で破って大統領に選ばれたときの、ロシアの選挙への介入との関係が日本ではほとんど報じられていない。

 この介入は、ラリー・ダイアモンドによる『浸食される民主主義(Ill Winds)』に詳細に記述されている。これは、トンデモ本などではなく、著者のダイアモンドは政治学者であり、この介入について信憑性がある文献を論拠としている。これらの介入は、大々的なものとして、ヒラリー・クリントンの選挙運動と民主党へのフィッシングによる攻撃である。彼らの膨大な受信ボックスから何百万通ものメッセージが盗まれ、これによってロシアは民主党のファイルに侵入し、議員や選挙運動スタッフなどが標的にされた。この漏洩は、民主党内の分裂を引き起こし、クリントンの信用が失墜した。この介入は、ロシア政府機関や諜報活動の部署が担当していたが、このほか報酬を受け取って活動するソーシャルメディアユーザーであるトロールによっても行われた。彼らは、トランプ支持に結びつきそうな社会問題や人種問題についてのフェイクを捻出したりSNS等で発信したりした。たとえば、2016521日、ヒューストンのイスラム教系施設で、「テキサスのイスラム化を阻止する」オンラインコミュニティと「イスラム知識の保存」オンラインコミュニティが互いに抗議活動を行った。これは、反イスラムの人々をトランプ支持に向かわせる効果があったと考えられるが、どちらのコミュニティもロシアで運営されていたもので、アメリカ社会の分断を大きくすることを目的として行われたと推察されている。

 プーチンによるこのようなトランプ支持のための選挙介入の理由は、2014年のプーチンによるクリミヤ併合を、オバマ政権下でヒトラーになぞらえて批判したクリントンを恨んでいるからであると推定されている。また、結果的にトランプが自国ファースト主義を採用すると旧ソビエト連邦共和国や東ヨーロッパにロシアが干渉しやすくなる。そして、ロシアの友好国だったリビア独裁政権の崩壊や、2004年のウクライナにおけるオレンジ革命のようなことをストップさせることもできるわけである。

 トランプのプーチンへのすり寄りは、このような選挙介入への返礼なのではないのだろうか。なぜかこの議論は、私は日本でほとんど目にすることがない。実は、『浸食される民主主義』を読むきっかけは、1991年のソビエト連邦崩壊を『歴史の終わり』とするフランシス・フクヤマの想定や、21世紀における紛争やジェノサイドの終結・人権意識の高揚という楽観主義を見直したかったことにある。トランプのプーチンやゼレンスキーに対する態度を見ると、米国までもが民主主義の国ではなくなるかもしれないという危惧になってしまう。独裁国による世界支配が、決して『歴史の終わり』になってはいけない。