2022年8月29日月曜日

論文発表数の減少(3)―論文数が減少するとなぜ都合が悪いのか (自然科学編)?

  日本における論文発表数の減少は、「今後ノーベル賞受賞が減る」などのレベルでは問題視されたことがあるが、メディア上で本質的な議論がなされているのを見ることはほとんどない。医学やコンピュータ科学などの自然科学系のこれらの研究は、人文科学系の研究と比べて、私たちの生活向上に直結しているのではないかと思うのだが、それでも世間で注目されることは少ない。研究の発表から、その成果を人々が享受できるまでに時間がかかるので、発表時点では価値がわからないというのがその理由かもしれない。

 私は個人的に、このような研究の発展がストップするのは困る (ガン等の難病の治癒率の向上、温暖化への対処、エネルギー対策のためなど、理由は数え上げればきりがない)。 しかし、仮に日本の研究がこのような発展に貢献することが少ないとしても、世界レベルで研究が進んでいればたいして問題はないとも考えていた。日本人研究者としてのプライドを捨てればそれで済む問題だからである。

 しかし、ロシアによるウクライナ侵攻に見られるように、世界の中の専制国家は何をするかわからないということが明白となったこの状況で、日本における自然科学的研究が不活発であるということは、安全保障をはじめとするさまざまな問題が生じてくる可能性がある。専制国家は、現時点で日本人にそれほど深刻な不利益を与えているわけではないが、かろうじてこの現状を維持できているのは、ひとえに、テクノロジーにおいて日本をはじめとする民主主義陣営が専制国家を上回っているからであろう。以前、流血戦を抑止できるのはITを支えるコンピュータ科学であると記したが (関連記事参照)、このIT分野において専制国家を凌駕し続けるためには、コンピュータ科学の研究発展が不可欠である。そしてこの技術を専制国家に盗ませてはいけない。コンピュータ科学に裏打ちされたITは、そのほとんどが軍事に活用できる。「あなたの研究が軍事に使われる」という時代錯誤的な規制をかければ、コンピュータ科学の発展の大きな足かせになるどころか、専制国家を大きく利することになる。

 現在、私たちは、米国などの日本以外のさまざまな国々で発展した科学の恩恵を受けている。しかし、恩恵を受けられるのは米国などが民主主義国だからであり、これが専制国家だとすると怖いことになる。直接の侵攻以外にも、恩恵のためにとてつもない特許料が必要だったり、専制国家に従わなければ輸出入をストップされたりとさまざまな被害を受けることになる。日本における自然科学研究の遅滞は、喫緊の問題だろう。

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2022年8月19日金曜日

論文発表数の減少(2)―現状への雑感

  先日公表された、文部科学省の科学技術・学術政策研究所の「科学技術指標2021」によれば、日本の論文発表数は減少の一途のようである。とくに、被引用が多いTop10%補正論文数に限れば、大きく順位を下げている。

 その要因として、研究費・研究時間の劣化、若手研究者の雇用・研究環境の劣化、研究拠点群の劣化等が指摘されている。いわゆる文科系(理科系・文科系という分類は、私は好んではいないが)に身を置いていて、個人的に最も感じているのは、ブルシットジョブが増えているにもかかわらず、人員が削減されているという点である。それが、研究時間の劣化を招いている。

 重要なマネジメントの地位につかない限り、多忙を極めるということはない。しかし、以前はなかったような一つ一つは小さくても煩わしい業務がやたら多いのである。そしてそれらの多くがブルシットジョブなのだ。たとえば、大学の研究教育力の低下ということで課せられたのだろうが、私の大学では、何年か分の自分の目標を、教育、研究、社会貢献などにわけて作文をさせられ、年度ごとにそれを自己評価する。それ自体は大した作業ではないが、何のために行っているのかほとんど意義を感じられず、疲労感を感ずるのである。自分が何をやったかなど、いちいちそれに記入しなくても、リサーチゲートかリサーチマップのコピーを提出すればすむことだ。そして、この種の雑務が多すぎるというのが問題なのだ。次から次へとそういうものが来ると、なかなか一つのことに集中してということができない。これらが、まとまった時間が必要な論文執筆の最大の障害となる。

 某大学で聞いたばかばかしい話を紹介したい。ここ何年もの間、日本の一部の私立大学が定員割れで苦境に立っているが、大学も学生集めに苦労しているようだ。それでその大学で各教員に下った号令が、「学生集めに汗をかけ」というものだったらしい。そして、各教員が大学のパンフレットと手土産を持参していろいろな高等学校を訪問するということにエネルギーが注がなくてはいけないらしいのだ。高大接続のために大学の教員が高等学校で時折授業をするというのは悪い試みだとは思わないが、この「汗をかく」訪問が合理的といえるだろうか。論文や書籍の出版を通して、あるいは上質な教育を通して行われる社会貢献が大学本来の役割である。筋違いのことに汗を流すことによって本来の業務に差しさわりが出れば、本末転倒以外何物でもない。「汗をかく」ことを妙に美化する慣習はもう止めてもらいたい。

 結局、いわゆる文科系の教員に向けられる目は、「大学の教員は、何年も同じノートを使い、夏休みや春休みは長い優雅な職種」というステレオタイプだろう。そんなことはない。夏休みや春休みは、論文等の執筆や最新の研究成果のインプットの時期で、授業内容も着実に更新されていることを忘れてもらっては困る。

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2022年8月11日木曜日

『ルーズな文化とタイトな文化』を読む(2)―ロシアの独裁への適用

  ルーズな文化とタイトな文化という区分は、単にさまざまな国々を分類するというだけではなく、同一国家内の時間軸上の変化も記述することができる。本書における興味深い記述は、ルーズな文化からタイトな文化への揺り戻しとして、「アラブの春」の失敗、すなわちエジプトなどにおける独裁への回帰を捉えていることである。この視点は、ロシアの変化にも適応され、原著はウクライナ侵攻以前の2018年の出版だが、出色の分析だと思う。

 1991年に独裁的でタイトな文化をもたらしていたソビエト連邦が崩壊すると、多くのロシア国民は民主主義を支持した。しかし、急激な経済の衰退と社会の混乱を経験すると、民主主義のルーズな文化を支持する熱気は薄れてきた。GDPの減少、とてつもないインフレ、犯罪の急増、薬物依存やアルコール依存の激増など、ロシア人の平均寿命を大きく下げるほどの混沌を経験したあとに登場したのがウラジミール・プーチンである。

 プーチンは、絶大な人気を集め、2017年には支持率が80パーセントを上回った。これは、独裁国の御用メディアによる発表ではなく、ほぼ事実を表しているようだ。この高支持率は、独裁的リーダーである「にもかかわらず」ではなく、そのようなリーダー「だからこそ」と、ゲルファンドは分析している。プーチンの独裁政権のもと、GDPは急増し、失業率は下がった。強権によって、ロシアを混乱状態から救ったわけである。もちろん、強権に伴って、政府批判と人権運動は取り締まられ、メディアは政府寄りのみとなり、政府に批判的だったジャーナリストがかなり殺害されている。ルーズな文化の混乱に辟易したロシア国民は、独裁体制のタイトな文化を選んだわけである。

 ルーズな文化における無秩序と不安は、人々をタイトな文化への選好に向かわせる。エーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』の中で、「個人の生活に意味と秩序を確実に与える思われる政治的機構やシンボルが提供されるならば、どんなイデオロギーや指導者でも喜んで受け入れようとする危険」を述べて、ドイツ国民が第一次世界大戦後の混乱からナチズムを選択したプロセスを記述したが、これは、第一次世界大戦後のドイツだけではなく、人類に普遍的に観察される傾向のようだ。現在のプーチン政権化のロシアが、まさしくその状態であるといえるだろう。

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