2019年12月30日月曜日

本当に「寛容性」が失われているのか? (1)―サイレントマジョリティの反旗

 ここ数年、さまざまなメディアや出版物において、日本人の寛容性が失われていることが主張されている。不祥事に対するメディアの「これでもか、これでもか」という過剰な追及と不寛容やネットでの炎上などが証拠としてあげられており、さらに、ご丁寧に、寛容性が失われていることの説明として、現代人の病理や人間関係の希薄さ、あるいは政治の劣化などがあげられている。しかし、そもそも本当に寛容性は失われているのだろうか? これが事実ではないとすれば、これを説明すること自体がばかげている。ネッシーの存在を確信して、恐竜がなぜ現代まで生き延びたのかを説明しようと試みるようなものだ。

 とくに、この「寛容性が失われている」を現代人あるいは現代日本人のモラルの喪失ととらえると、本質を見誤る。モラルについていえば、太平洋戦争以後、犯罪等は確実に減少しているし(もちろん、この理由として、科学的捜査技術の進歩もあげられるだろうが)、世界的な潮流の一環として、日本においても、人権意識の高まりは確実に見られる。もちろん、差別が無くなったとはいえないが、「差別はいけない」という意識は人々の間で大きく共有されるようになった。

 そもそも、たとえば昭和の時代は今よりも人々は寛容だったのだろうか。戦時下における非国民非難の非寛容は、特殊な状況下ということもあるので比較対象になりにくいかもしれない。しかし、同じような非寛容は、昭和30年代あるいは40年代は至る所にあった。もし現代の非寛容が強くなったように見えるとすれば、かつて近辺の関係者だけにとどまっていた非寛容の対象が、情報化が進むことによって、それ以外の対象にも及ぶようになった結果だろう。とくに、インターネットが普及して、自分の意見を表明することが容易になり、また匿名で他者を非難することが可能になったことが大きな要因であろう。サイレントマジョリティが意見を発信するツールを得て、彼らの不満が人々に知られるようになっただけの現象ともいえる。武器の発明が人類を残虐にしたのではないのと同じ理由で、インターネットが人々を不寛容にしたわけではない。

 現代日本を不寛容と考えている人々の、もう1つの根拠は、モンスターカスタマー、モンスターペアレンツ、モンスターペイシェントなどの出現かもしれない。しかし私は、これらは、上述の人権意識の高まりの副産物だろうと思う。人権意識の高まりは、人々のモラルを普遍的に押し上げるわけではない。「弱者であってもモノが言える」という風潮の中で、これまで、生産者に対して弱者だった消費者、教師に対して弱者だった親、医師に対して弱者だった患者が、不満を述べ始めた結果として、モンスターが誕生したのだろう。彼らが、サイレントマジョリティとして、不満を表現できなかった社会よりはましなのではないかと思う。もちろん、私も、これらの問題は放置してよいと考えているわけではなく、何らかの対策が必要だろうとは思う。しかし、これらの現象をもって、現代人の精神の貧しさとか、モラルの低下に結びつけて議論するのは不毛以外なにものでもない。

2019年12月19日木曜日

“Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”刊行 (3)―笑いについての考察


 11月末に刊行された” Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”では、私はもう1つの章を執筆している。章タイトルは Laugh and laughter as adaptation in human beings: Past and presentである。なぜこのタイトルの書籍に「笑い」についての章が含まれるのかと、疑問に思われるかもしれない。しかし、社会的哺乳類として進化したホモ・サピエンスが、ダンバー数を超えてどのように大規模な協同が可能になったのかという問題に対して、「笑い」はその1つの戦略であるという視点からその機能を論じることができ、本書のテーマに合致するわけである。つまり、「何かをみんなで笑う」という経験は、人々を結びつける機能があるというわけだ。ちょうど宗教的な集まりが人々の結びつきを強固にするという機能と似ている。

 しかし「笑い」には、もう1つ、他者を嘲笑するという機能もある。どちらの機能も、「笑い」が何らかのズレを認識することによって引き起こされる点にその源泉がある。ズレには、習慣からのズレや規範からのズレがあり、失敗などのズレを引き起こした本人を巻き込んでの笑いになることもあるが、そうでなければ、たとえば規範からのズレにたいしては嘲笑になりやすい。つまり、規範からのズレを生じさせたということで非難の対象になるわけである。さらに嘲笑も、笑っている人々同士の関係を強める作用があるといえる。

 嘲笑は、ホモ・サピエンスを含む社会的哺乳類としての霊長類における順位制において極めて高い適応的機能がある。順位制においては、自分の順位を上昇させるという適応課題と、集団の調和を保持するという適応課題がそれぞれの個体にのしかかる。嘲笑は、された側の順位の低下を招きやすく、また同時に、集団のメンバーと協同で嘲笑をすれば、嘲笑している側のメンバー間の関係が強まることになる。地位上昇と調和保持という両方の問題に有効なわけである。また、順位制への適応という視点から、自虐的な笑いがなぜ受けやすいのかという理由も明らかになる。自虐は、自嘲として自分の地位を低下させる可能性もあるが、他のメンバーに、「自分は地位の上昇の野心を持っていませんよ」というメッセージになるわけである。したがって、他のメンバーは、安心してその自虐を笑うことができるのである。

 情報化社会としての現代では、コミュニケーションは複雑化している。まず他者への攻撃として、身体的な暴力がここ70年の間に大きく忌避されることになり、相対的に言葉が武器として選択されるようになった。もちろん言葉の暴力としてハラスメントと認定される場合もあるが、嘲笑は、最も受け入れられやすい他者攻撃の戦略になっている。ジョークを含んだ嘲笑は、身体的暴力に代わるものとして、その個人の知性が高いと評価され、順位制の中で地位の上昇をもたらすことにもつながる。一方で、受け入れられやすいはずの自虐でも、ときには批判されることもある。たとえば、自他ともに美人と認められる40歳を過ぎた女優が、「どうせ私は結婚できないから」と自嘲したとしよう。「美人は結婚に有利」という常識からのズレとして、この女優の仲間内では、笑いを誘うかもしれない。しかしこの自虐がメディアによってさまざまに伝えられると、独身は惨めだという価値観を押し付けるものとして、独身を選択した女性を傷つけることになる。情報化社会では、仲間内では笑いになっても、不特定多数に発信されると許容されにくくなることが起こりうるわけである。


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2019年12月9日月曜日

“Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”刊行 (2)―モラルについての自然実験


 11月末に刊行された Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary societyでは、私は2つの章を執筆している。これは、編者特権ではなく、章が足りなくなると出版できないということで、慌てて1章を追加した次第で、共に編集に加わっていただいたVeronique Salvano-Pardieuさんも2つの章を担当された。

 そのうちの一つである4章は、Morality and contemporary civilization: A dual process approachというタイトルで、「スロー」なモラルが「ファスト」な衝動を制御することができるのかどうかという問題を、歴史の自然実験で検証しようと試みたものである。拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』では、「ファスト」のモジュールの中に現代の繁栄の基礎があるということに主眼が置かれていたが、この章では、モラルの向上の問題に焦点が当てられている。

 1027日の「法と心理学会」で話したこととはこれを基にしているが、この章では、歴史の自然実験として、18世紀のヨーロッパの戦争・暴力・残虐性の減少と、第二次世界大戦以降の戦争・殺人・犯罪・暴力の減少と人権意識の高まりという2つ事例が取り上げられ、それがどのような意味で「スロー」による「ファスト」の抑制なのかという問題が論じられている。概して、「ファスト」は、「怒り」や「恐怖」など強い感情と結びついている。したがって、「ファスト」と結びついた残虐性、例えば魔女に対する恐怖に駆られて行われる拷問等は凄惨を極め、「スロー」では修正されにくい。いくら「スロー」が魔女は迷信に過ぎないと理解しても、恐怖を消すのは困難なのである。現代でも、仏滅について、「スロー」は迷信だと判断してくれるが、「ファスト」はタブーを破って仏滅に結婚式をすることの恐怖を引き起こす。

 しかし、自然実験の結果、魔女狩りが消滅したことは事実である。私は、スティーヴン・ピンカーに同意して、これを、「スロー」による「ファスト」の直接の制御というよりは、「スロー」が「ファスト」の「心の理論」あるいはメンタライジングを制御することによって、拷問を受ける魔女への共感や同情を呼び起こした結果と解釈している。つまり、「ファスト」の恐怖がもたらす感情を、共感がもたらす「かわいそう」という感情で飼いならしたわけだ。

 この解釈は、犠牲者同定効果と呼ばれる現象とも一致する。この効果は、犠牲者が明示的になると、その犠牲者への同情が大きくなるというもので、たとえば、災害があったとき、そこの特定の犠牲者がクローズアップされると、寄付が集まりやすい。メンタライジングによって、犠牲者の悲しみを共有することが可能になり、強い感情が引き起こされて、行動を喚起しやすくなるわけである。これは、いいかえれば、「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計」という言葉に表わされる。乱暴かもしれないが、これをモラル判断に適用すれば、1人の死は直感的な義務論的判断に、100万人の死は熟慮的な功利論的判断に相当する。 前者はカント、後者はベンサムによる主唱で、カントが好きな人には申し訳ないが、直感による義務論的判断は、行動へのエネルギーはあるものの危なっかしい。社会全体にモラルが浸透するためには、功利論的な規範に向けての、義務論的判断のエネルギーによる人々の行動が最も適しているというのが結論である。


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「スロー」は「ファスト」を制御可能か? ―歴史的自然実験による検証


2019年12月1日日曜日

“Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”刊行 (1)―本書の簡単な紹介


 IGI Globalという出版社から、フランスのツール大学のVeronique Salvano-Pardieuさんと私の編集で、“Adaptinghuman thinking and moral reasoning in contemporary society”という書籍が先日刊行された。これは、認知科学の研究者に、この現代の成立と現代文明への適応をどのように考えていくのかについて語ってもらうという趣旨で企画され、最終的に12の章が編集されて出版ということになった。

 ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』やスティーヴン・ミズンの『心の先史時代』から、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』など、ここ30年ほどで、人類はどのようにして文化を創り上げてこの発展した現代に至ったのかについての、いわゆるビッグ・ヒストリーのアプローチの書籍が増えた。これらは、現代人のモラルが失われたという幻想をあたかも事実として、それを説明しようとする(「事実」なら説明する価値があるが、「事実」ではないことを説明しようとしているから不思議である)浅薄な現代論とは一線を画しており、主としてNatureScienceなどの国際誌で発表された膨大な資料に基づいて「物語」が編まれていて、非常に読み応えがあると思う。

 自分もこういう書籍を書いてみたいという野望は常に抱いていたが、残念ながら私一人ではとても書けないし、私が渉猟することができる適切な文献は多くない。そこで、モラル推論について研究をされているSalvano-Pardieuさんとともに、認知についてのさまざまなモデルを想定している研究者に声をかけての企画となった。とくに、私たちが多かれ少なかれ関与している、「ファスト」と「スロー」を仮定している二重過程理論は、進化的に新しい「スロー」がこの現代の繁栄にどのように貢献しているのかという視点を提供してくれるのである。

 12章は4章ずつの3セクションからなり、第1セクションでは、進化的な視点から、主として推論やモラル推論について議論している。すべての章において二重過程理論が想定されており、人間の推論にどのよう適応的な意味があるのかという基本的な問いかけと、それがモラル判断にどのように適用されているのか、さらには「ファスト」が「スロー」をどのように抑制するのかが議論されている。

 第2セクションでは、現代社会における推論が4つの角度から議論されている。とくに私は、迷信が徐々に信じられなくなる (たとえば、内山節が『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』の中で興味深い論考を行っている) ということと、科学を突き詰めると逆に神を信じてしまう人間の不思議さが興味深く、この領域の適任者として北星学園大の眞嶋先生がこの中の1章を執筆されている。

 第3セクションの執筆者たちは、それぞれの立場から、教育あるいは政策論を語っている。モラル推論への教育的介入や教師による推論に加えて、哲学者(名古屋大のLai先生と戸田山先生)からはアカデミックライティングを通した論理学教育が提唱され、政策学者からは現代社会における知識管理の一環としての知的資本の管理の重要性が主張されている。

 IGI Globalは非英語圏からの学術書の出版を奨励しており、著者の世界的なネームバリューがイマイチということで、売れないので書籍が高額になっている。しかし、さまざまな分野の認知科学者が人間の思考やモラル推論から現代を語るという、これまでにないユニークな構成になっている書籍だと自負している。また、割高にはなるが、IGIのサイトからはそれぞれの章を購入することも可能である (私の章は2章ありますが、請求いただければ、著作権に触れない範囲で原稿のpdfをお送りできます)