とくに、この「寛容性が失われている」を現代人あるいは現代日本人のモラルの喪失ととらえると、本質を見誤る。モラルについていえば、太平洋戦争以後、犯罪等は確実に減少しているし(もちろん、この理由として、科学的捜査技術の進歩もあげられるだろうが)、世界的な潮流の一環として、日本においても、人権意識の高まりは確実に見られる。もちろん、差別が無くなったとはいえないが、「差別はいけない」という意識は人々の間で大きく共有されるようになった。
そもそも、たとえば昭和の時代は今よりも人々は寛容だったのだろうか。戦時下における非国民非難の非寛容は、特殊な状況下ということもあるので比較対象になりにくいかもしれない。しかし、同じような非寛容は、昭和30年代あるいは40年代は至る所にあった。もし現代の非寛容が強くなったように見えるとすれば、かつて近辺の関係者だけにとどまっていた非寛容の対象が、情報化が進むことによって、それ以外の対象にも及ぶようになった結果だろう。とくに、インターネットが普及して、自分の意見を表明することが容易になり、また匿名で他者を非難することが可能になったことが大きな要因であろう。サイレントマジョリティが意見を発信するツールを得て、彼らの不満が人々に知られるようになっただけの現象ともいえる。武器の発明が人類を残虐にしたのではないのと同じ理由で、インターネットが人々を不寛容にしたわけではない。
現代日本を不寛容と考えている人々の、もう1つの根拠は、モンスターカスタマー、モンスターペアレンツ、モンスターペイシェントなどの出現かもしれない。しかし私は、これらは、上述の人権意識の高まりの副産物だろうと思う。人権意識の高まりは、人々のモラルを普遍的に押し上げるわけではない。「弱者であってもモノが言える」という風潮の中で、これまで、生産者に対して弱者だった消費者、教師に対して弱者だった親、医師に対して弱者だった患者が、不満を述べ始めた結果として、モンスターが誕生したのだろう。彼らが、サイレントマジョリティとして、不満を表現できなかった社会よりはましなのではないかと思う。もちろん、私も、これらの問題は放置してよいと考えているわけではなく、何らかの対策が必要だろうとは思う。しかし、これらの現象をもって、現代人の精神の貧しさとか、モラルの低下に結びつけて議論するのは不毛以外なにものでもない。