2018年8月24日金曜日

ドブロヴニク滞在記―アドリア海の真珠と戦争の爪痕

 今年の夏は、出張ではない純粋なヴァカンスとして、クロアチアのドブロヴニクに1週間余り滞在した。中学生のころ、「バルカン半島はヨーロッパの火薬庫」と習ったが、当時の旧ユーゴスラビアはチトーによって統一されていたので、あまりピンとはこなかった。しかし、今回初めて訪れてみて、この地域の歴史的複雑さを改めて実感させられた。

 ドブロヴニクは、アドリア海の真珠と呼ばれていて、世界遺産に登録されている。旧市街が城壁で囲まれており、その中に大聖堂、総督邸、いくつかの教会や修道院などの歴史的建造物がある。最上段の写真にあるように、建物はライムストーンで造られており、また統一されたライトブラウンの屋根は、本当に美しい。

 歴史的に、ローマ帝国や東ローマ帝国の版図であったりしたが、中世は、ラグーサ共和国(共和国なので、王宮ではなく、ヴェニスのように総督邸がある)と呼ばれた地中海の海洋共和国の一つで、ヴェニスがライバルであった。ラグーサ共和国はオスマントルコとヴェニスの間の緊張の中で独立を保ったが、ナポレオン戦争の後、結局はオーストリア=ハンガリー帝国に飲み込まれるに至る。

 第二次世界大戦後は、チトーの指導の下、ユーゴスラビアの一部となるが、その崩壊後のクロアチアの独立をめぐって、1991年から1995年にかけて紛争(正しくは、戦争というべきかもしれない)が起きている。独立に反対するクロアチア領内のセルビア人グループやそれを後押しするセルビアとの紛争である。

 これらの記録は、ドブロヴニク市街を見下ろすことができるスルジ山頂にある、独立戦争博物館の展示資料で知ることができる。この山はセルビア側からの砲撃をかなり受け、また市街地にも砲弾が降り注いだようである。観光客で溢れかえる旧市街を散策の後に、この博物館の当時(といっても、20数年前なのだ)の記録写真を見ると、いかに悲惨な状況だったかがわかる。下の写真は、現在の聖母被昇天大聖堂の内部と、戦時中のものの対比である。修復等によって若干変化があるようだが、人々が呆然とするような惨状であったようだ。

 今年のワールドカップではクロアチアは準優勝だったが、1998年、あの日本が初めてワールドカップに出場したときに3位になっている。日本もクロアチアに敗れている。そうすると、あの出場は紛争終了後わずか3年ということになる。選手たちはまたサッカーができる喜びを味わっただろうし、人々には平和の象徴のように感じられた快挙だっただろう。

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