生まれつき茶色の髪の女子生徒に黒く染めることを府立高校の教員が強要したということが問題になっているが、やはり多くの人々から批判が起きている。私も、これは、例えば、ガングロを校則で禁止するとき、アフリカ系の生徒に顔を白く染めることを強要することと本質的に同じだと思っていたが、これが人権にかかわることだというその程度の想像力がないのだろうかといぶかしく思っていた。
一方で、高等学校の教員といえばある程度は見識がある人々の集まりではないかと思うのだが、彼らがそろってそういう判断を行ったのだろうかということも、実は私には想像しにくいのである。教育現場というところでは、ひょっとしたら組織というものがそういうものなのかもしれないが、声の大きい人がいて、それをちょっと常識のない人たちが取り巻いていると、こういう非常識な判断がなされやすい。モラルハラスメントという用語が生まれたように、モラルには自己中心的な側面があり、かつ反対する人たちを沈黙させる力がある。学校の教師はモラルという言葉に弱い。そして、声の大きい人は、このような自己中心的なモラル観を持っている可能性が高く、それを振りかざしながら、自分の意見を主張し、取り巻きは容易にそれに唱和する。
「いくら茶色の髪が地毛だとはいえ、その子を真似する生徒が増えたらどうするのですか。本人のためにもなりません。また、このままではわが校は非行のたまり場になります」と声を大にして叫ばれたら、教師たちは、何かおかしいなと思っていても、反対しにくい。教師は、「本人のため」という言葉が出ると反論しにくいのである。反論すると、たちまち取り巻きから、本人のことを何も考えていない無責任教員というレッテルを貼られてしまう。
私は、この高等学校にも、多くのまともな教員は存在していると信じたい。彼らは、振りかざされたモラルに対して、おそらくサイレンスマジョリティであるしかしかたがなかったのではないだろうかと想像している。