2017年10月28日土曜日

黒染強要事件から想像したこと


 生まれつき茶色の髪の女子生徒に黒く染めることを府立高校の教員が強要したということが問題になっているが、やはり多くの人々から批判が起きている。私も、これは、例えば、ガングロを校則で禁止するとき、アフリカ系の生徒に顔を白く染めることを強要することと本質的に同じだと思っていたが、これが人権にかかわることだというその程度の想像力がないのだろうかといぶかしく思っていた。

 一方で、高等学校の教員といえばある程度は見識がある人々の集まりではないかと思うのだが、彼らがそろってそういう判断を行ったのだろうかということも、実は私には想像しにくいのである。教育現場というところでは、ひょっとしたら組織というものがそういうものなのかもしれないが、声の大きい人がいて、それをちょっと常識のない人たちが取り巻いていると、こういう非常識な判断がなされやすい。モラルハラスメントという用語が生まれたように、モラルには自己中心的な側面があり、かつ反対する人たちを沈黙させる力がある。学校の教師はモラルという言葉に弱い。そして、声の大きい人は、このような自己中心的なモラル観を持っている可能性が高く、それを振りかざしながら、自分の意見を主張し、取り巻きは容易にそれに唱和する。

 「いくら茶色の髪が地毛だとはいえ、その子を真似する生徒が増えたらどうするのですか。本人のためにもなりません。また、このままではわが校は非行のたまり場になります」と声を大にして叫ばれたら、教師たちは、何かおかしいなと思っていても、反対しにくい。教師は、「本人のため」という言葉が出ると反論しにくいのである。反論すると、たちまち取り巻きから、本人のことを何も考えていない無責任教員というレッテルを貼られてしまう。

 私は、この高等学校にも、多くのまともな教員は存在していると信じたい。彼らは、振りかざされたモラルに対して、おそらくサイレンスマジョリティであるしかしかたがなかったのではないだろうかと想像している。

2017年10月26日木曜日

改憲論議の前に


 先日の衆議院選挙では、安倍晋三率いる自由民主党が多くの議席を獲得した。各党のさまざまな論点・争点がある中で、私が気になるものの一つに日本国憲法の改正、特に、第9条の修正がある。私はこれについては全くの素人ではあるが、心理学の立場からのグローバリズムへの適応等に関連して、どうしても関心が向いてしまう。

 改憲論議が盛り上がるのは悪くはないが、私の中では、その前にもっと議論して欲しいと思っていることがある。それは、パクス・アメリカーナと呼ばれる、第二次世界大戦以降あるいはソヴィエト連邦崩壊以降の、アメリカ主導の世界平和の評価である。もちろんこの議論は、努力して調べれば見つかるだろうが、少なくとも日本において、核の傘とか抑止力等以外にメディアで議論されることがほとんどないように思える。東西の冷戦時は、第三次世界大戦がいつ起こるかと危惧されていたが、幸い起こることはなかった。いくつかの代理戦争、小国同士の戦争、ジェノサイトなど不幸なことは起きたものの、今世紀に入ってからは、戦争やジェノサイトと呼ばれるものは消滅している(ただし南スーダンで進行中の可能性はある)。これは、世界の警察あるいは世界のリヴァイアサンたるアメリカ主体の国連軍事活動によるものなのだろうかという評価にもっと切り込んで欲しいのである。

 おそらく改憲派は、パクス・アメリカーナを高評価したうえで、それに追随した国際貢献できるための改憲ということになっているのだろう。しかしどういう意味で高評価しているのかという理由はあまり聞こえてこない。また一方で、護憲派(主として第9条を守れ派と呼んだほうがいいかもしれないが)については、この評価についての意見がほとんど聞こえてこない。否定的なのだろうか。

 なお、私自身は高評価派である。ただし、アメリカ主導のグローバル化の波は、それぞれの文化に価値があるとする文化相対主義的な視点からすれば、やはりいろいろと問題があり、戦争の消滅は、アメリカン・リヴァイアサンだけではないはずだ。もし低評価という人がいたら、そういう人たちの主張も聞きたいのである。

 こういうと私は改憲派と分類されるかもしれないが、パクス・アメリカーナ・レジームで、日本の現憲法のまま世界の秩序維持に貢献できる可能性を否定しているわけではない。核の傘のフリーライダーとしてではなく、あるいは単にアメリカン・リヴァイアサンを経済的支援するだけではなく、何か平和のシンボルとしての役割があるのではないかと模索したい。ただ、アメリカが、リヴァイアサンから手を引いたらお終いなのだが。

 なお、私のグローバリズムについての章は、以下のタイトルである。
A Perspective of Cross-Cultural Psychological Studies for Global Business
ResearchGateからなら無料でDLできる。


2017年10月20日金曜日

洞窟壁画

 一度この目で見たいものの一つに、約25千年から15千年前の間に、スペインのアルタミラ洞窟やフランスのショーヴェ洞窟で描かれた洞窟壁画がある。非常に生き生きとしたトナカイなどが描かれているらしいのだが、洞窟の中で、これを描いた人は何のために何を考えながら描いたのかを想像してみたいのである。

 ただしこの洞窟画は、約1万年余り前には描かれなくなっている。私は、この理由を東からの農業技術を伴った巨石文化の伝播によるものなのかと想像していた。ただし、このあたりに農業が伝わったのは6千年前なので、だいぶタイムラグがあるが、ただ単にその間の洞窟壁画がまだ見つかっていないだけかもしれないと思っていた。

 私は、巨石文化の一端を、英国のストーンヘンジで見たが、その荘厳さに圧倒された記憶がある。洞窟壁画を描いていた狩猟採集民には、巨石文化を伝えた農業技術集団ははるかに豊かに見えただろうし、おそらく巨石と比較して洞窟壁画がみすぼらしく見えたのではないかと想像していた。ちょうど、幕末に黒船に代表される西洋文明に圧倒され、同時に、チョンマゲというなかなかおしゃれなファッションを廃止してしまった日本人のようなものではないかと思ったわけだ。

 ところが最近、イアン・モリスの『人類5万年 文明の興亡』を読んでいて、それがどうやら誤りだと気がついた。描かれなくなった理由は、15千年前の気温の上昇にあるらしい。ちょうど氷河期が終わりに近づくころであるが、この温暖化で、狩猟採集民がトナカイを追って北へ移動したようである。するとトナカイを描く人はいなくなり、また洞窟の灯りに使われたトナカイの獣脂も入手できなくなって、洞窟壁画の描き手がいなくなったというわけである。また、彼らが移動していった北欧には、スペインやフランスにあるような鍾乳洞がほとんどなく、移動先で才能を発揮することもできなかったようだ。

 ストーンヘンジを見たのは9年前の2008年だが、9年間考えていた誤りがやっと訂正されてほっとした気持ちである。しかし科学的発見や説明に絶対はない。ひょっとしてトナカイだけが消えた7000年前の壁画がどこかで埋もれているかもしれない。とりあえずストーンヘンジで撮った写真を張り付けておこう。

2017年10月16日月曜日

おんな城主直虎



 昨年、HNK大河ドラマの「真田丸」が終了し、大きなロスに陥っていた。正直言って、その時点で今年の「おんな城主直虎」には期待していなかったのだが、これが、非常におもしろい。歴史素人の私には、史実についてはよくわからないが、昨年の真田丸と同様に、戦国時代の小領主にどのような苦難があったのかというリアリティも伝わってくる。そして、各登場人物の心理描写が丁寧で、それを演ずる俳優がそろって役者である。


 今年の大河の特徴は、それぞれの俳優の顔の表情のすばらしさであろう。さまざまな人間関係の中で、愛情、信頼、安堵、憎しみ、軽蔑など、そのときどきの感情をどれか一つに絞るような描き方がされておらず、そのような複雑な感情を見事に役者として表現しているように思える。さらに、会話等の中で、微妙な感情の変化を、表情のちょっとした変化で、視聴者にこれだけリアリティ感じさせながら表現できているドラマや映画にはめったにお目にかかれるものではない。直虎を演ずる柴咲コウや南渓和尚を演ずる小林薫の安定した演技は言うまでもないが、脇役に至るまでほとんど手抜きがない。


 顔の表情という点で、対照的なのが2012年の「平清盛」である。平安・鎌倉当時のリアリティを出すとかという演出で、建物の中が暗くされ、顔の表情がほとんどわからなかった。清盛の父役の中井貴一など、表情だけで演技ができる名優がそろっていたにもかかわらず、それをほとんど味わうことができなかったことは非常に残念であった。

 今年の大河でブレークした俳優は、高橋一生であろう。私が彼に初めて注目したのは、2007年の「風林火山」である。彼は、武田家家臣の駒井高白斎を演じていたが、かなりの年配者のはずの駒井を若い一生が演じるという違和感もあったが、おそろしく落ち着き払った文官を年齢不詳の能面のような表情で演じていたという強い印象が残っている。直虎においても、小野政次の感情を役者として表現するのが巧みなだけではなく、正次が自分の感情がわからなくなっている状態をもうまく演ずるという役者としての凄みが伝わってくるように思える。

2017年10月14日土曜日

論文発表数の減少(1)


 のっけから悲観的な話題だが、日本人研究者による国際誌での論文発表数の世界に対する割合がこの10年間で急落しているらしい。これはNature Index 2017 Japanによる報告で、日本人にとって大きな警告となっている。このニュースに対して、私の中で意外なという驚きと、当然だろうという矛盾した印象をもった。

 意外という理由は、ここ10年ほどの心理学領域において、国際誌にかなり日本人若手研究者の論文が掲載されるようになったからである。20世紀の時点では、国際誌での日本人の論文は本当に少なく、欧米の大学で博士号を取得した「偉い先生」に限られていたという印象だった。しかし、インターネットによって論文検索が容易になり、グローバル化の波に乗って海外の国際学会で発表する機会も増え、国際的な第一線で活躍している研究者との意見交換も容易になって、このような進歩があったのであろう。

 当然という理由は、大学教員の職責という点で、研究に割くことができる時間がおそろしく減少しているという点である。この最も大きな要因は、人員の削減と、精神的消耗を伴う仕事の増加である。人員の削減は、教員だけではなく、事務職員まで及び、事務職員は多忙を極め、教員は教育と研究以外のさまざまな仕事をしなければいけなくなった。また、私が所属する大学はまだましなのだが、私立大学の場合は、夏はオープンキャンパス、秋は推薦入試等が目白押しで、週末がおそろしく潰れてしまう。そうすると、学会等に参加できない、土曜日によく行う自主研究会を行えない、論文を読んだり書いたりする時間が激減するという状態に陥る。ちょうど小中高の教員が、さまざまな雑務のために、最も大切な授業の準備ができなくなるということと同じことが起きているわけである。

「大学の教員なんて、授業は少ないし夏休みは長いし、仕事をさせておけ」程度の認識でこういう状態が放置されていていいのだろうか。これは、ノーベル賞受賞が減るとかそういう議論ではなく、知のあり方といったもっと本質的なレベルで為政者に考えていって欲しい問題である。