2025年2月15日土曜日

「べらぼう」で描かれる出版文化とパクス・トクガワーナ

  2025年のNHK大河ドラマの「べらぼう」は、当初は横浜流星が一本調子でイマイチかなと思っていたが、だんだんと面白くなってきたと思う。ドラマの中で、私自身が個人的にちょっと興味をもったのが、当時の人々がどのくらい物語を読むという習慣があったのかという点である。

 この興味の理由は、スティーヴン・ピンカーが、『暴力の人類史(The Better Angels of Our Nature)』の中で、17世紀の啓蒙の時代における変化、すなわち、魔女狩りの終焉に見られるような、戦争、暴力、残虐性の減少に影響を与えた要因の一つとして、小説の普及を推定しているからである。つまり、小説を読むことによって、他者の心情をシミュレートするためのマインドリーディングが活性化され、それによってたとえば恐怖の対象だった魔女が、火刑になったりすると憐憫の対象になるということが起こりうる。実際、この時期は、聖書の印刷が主要用途だった活版印刷が、小説の印刷に適用されるようになり、フランスではジャン・ド・ラ・フォンティーヌ、英国ではダニエル・デフォーやジョナサン・スィフト、ドイツではゲーテが小説を発表した。

 ピンカーは触れていないが、日本における17世紀からのパクス・トクガワーナにおいても、小説が影響を与えているのではないかと思う。17世紀初めの江戸開府以来、あれだけ激しかった戦国時代のような内戦はほとんど起きず、また江戸は世界的にも殺人・暴力が少ない都市であると推定されていて、この江戸時代の平和がパクス・トクガワーナと呼ばれている。もちろんこの要因として、人々が戦国時代の内戦に辟易してきたこと、徳川幕府が強大なリヴァイアサンになったことなどを挙げることができるだろう。それに加えて、17世紀末の上方文化、19世紀の化政文化における、多くの出版や、歌舞伎、文楽、能・狂言などを挙げることができる。これらは人々のマインドリーディングを活性化して、他者に対して残虐であることを避けるような風潮を生み出したことは、十分に推定できることである。また、上方文化の開始とほぼ同じ時期の1687年に触れとして出されたのが「生類憐みの令」である。一般には、動物の殺生がほとんどできなくした悪法という印象もあるが、中核は、捨て子や病人、高齢者、動物の保護を目的とした人道的な法である。パクス・トクガワーナの背景には、このような価値観がかなり人々の間で共有されていただろう。

 「べらぼう」の中で、横浜流星が演ずる蔦重が、吉原の遊女たちから「青本」はつまらないという情報を得ている。青本は、絵とお話しが描かれた17世紀後半からの赤本の形態を継いだものだが、このドラマのエピソードから、18世紀の後半にはかなり江戸の市中で人々に読まれていることを推察させてくれる。大河ドラマは必ずしも史実とは限らないが、小説が普及している「雰囲気」をうまく描き出してくれているのではないかと思う。

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2025年2月2日日曜日

石破首相の「楽しい国日本」雑感―ウィーンでの思い出

  石破茂首相が施政方針演説において、一人一人が主導する「楽しい日本」を目指すと述べた。この「楽しい国」というフレーズを聞いたときに、真っ先に思い出したのがオーストリアである。私は、1992年の国際学会のあと、しばらくオーストリアを旅行したのだが、ウィーンとザルツブルグは最高に「楽しい街」だと感じた。とくにウィーンでは、フロイト博物館の近くに宿泊して、シェーンブルンの野外オペラ (モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」だった) を観て、市立公園でウィンナワルツを聴き、シュテファン大聖堂近辺でストリートミュージシャンの演奏を聴き、世紀末の諸建築物を見て、美術史美術館で北方ルネッサンスやクリムト等の絵画を堪能した。

 また、レストランで夕食を済ませ、1時間ほどで出ようとしたら、店員に「この店で気に入らなかったことがあったら教えて欲しい」と言われた。その時はキョトンとしてしまったのだが、周りを見渡すと、1時間くらいで席を立つような客はほとんどいない。ゆっくりと食事をし、食事を終えた後でも楽しそうに延々とおしゃべりをしている。ウィーンの人たちは、本当に生活あるいは人生を楽しんでいるという印象だった。当時、経済大国と言われていても、バブルの狂奔を体験した日本人には羨ましい限りであった。私は、日本も経済大国にならなくて良いからこのような「楽しい国」にならないだろうかと願った (ただし、1992年時点ですでにオーストリアは日本よりも一人当たりGDPはやや高く、現在は日本のはるか上である)。しかし、オーストリアがもっているこれだけの文化コンテンツには日本にはなく、歌舞伎や能はあっても一般にはなかなか普及せず、博物館や美術館も貧相な日本にはこれは難しいと感じた次第である。

 日本のその後の経済発展については足踏み状態が続いているが、文化コンテンツについては確実に上質になったと思う。オペラコンサートは増え、ミュージカルや歌舞伎が手軽になり、博物館・美術館は随分と充実したものになった。海外からの観光客でオーバーツーリズム気味だが、この方向性は間違っていないと思う。もし「楽しい国」が実現するとすれば、これらのコンテンツへのアクセスが誰もが容易になったときだろうと思う。

 しかし、この30年で時代は変わった。東洋と西洋において軍事力で周辺を侵略・圧迫する独裁国が国力をもち、周辺諸国も「強い国」にならざるをえないという状況が生まれた。さらに、西洋には「人権」意識が希薄な移民が押し寄せ、リベラルな国においても国のアイデンティティを求めるナショナリストが増えた。その結果、オーストリアでは、昨年旧ナチス幹部が創始した極右政党が第1党となった。世界はどうなっていくのだろうか。私も、日本は「強い国」よりも「楽しい国」になって欲しいと思っているが、テクノロジーだけは独裁国よりも凌駕し続け、「安心な国」をベースにして人生を楽しめたらと願っている。

 

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『西洋の自死―移民・アイデンティティ・イスラム (The strange death of Europe: Immigration, identity, Islam)』―かなりショッキングな内容の著作である