2023年9月のHuman and Artificial Rationalitiesのカンファレンスでは、3件のキーノートがあった。そのうち、印象に残ったのは、言語学者のDaniel Lassiterの”The crucial role of linguistics in reasoning studies”というタイトルでのトークである。私が言語学者の研究発表に触れるのは、これまでは主として日本認知科学会である。しかし、ここ15年ほどはこの学会に足が遠のいているので、このような話を聞くことができたのは久しぶりで、消化不良でもあるが、面白かった。
条件文推論において、人間が非規範的な誤りを犯すことはよく知られている。しかし一方で、規範通りの推論のはずが、日常言語として受け入れることができなくなるというのが、Lassiterの問題提起である。たとえば、「If A, then B」かつ「A」から「B」を導くのは、Modus Ponensと呼ばれ、論理学では鉄板の論理式である。このAやBには何を代入しても、成り立つはずである。「もし雨ならば、マイクは傘をさす」かつ「雨」からは、「マイクは傘をさす」を導くことができるのは、誰が見ても明白だろう。ところが、「もし雨ならば、マイクは常に傘をさす」かつ「雨」ならどうだろうか。Modus Ponensにしたがえば、結論は「マイクは常に傘をさす」となる。しかし、この結論には違和感を抱かないだろうか。その理由は、「常に」の意味が異なってしまっているからである。If節の中で使用されると、雨が降るというあらゆる機会において「常に」という意味になっているが、結論では、マイクが常に傘をさすという習慣が真であるという意味に変容しているからである。If節がなければ、「常に」は習慣を表現するのがデフォルトなのである。
この問題は、形式のみからの議論では解決は期待できない。コンテクストと意味論からのアプローチが必要になってくる。一般に、「常に」のような量化副詞は、If節の中で使用されると、If節は、これによって「常に」の量化領域が制限されるというように解釈される。この例の場合には、「雨降りというあらゆる機会において」というように量化されているわけである。そこで、習慣的日常言語において、このような量化の変容が生ずるということを受け入れた上で、論理式の再定式化が必要になってくる。Modus Ponensの鉄板化のためには、If節の中の「常に」の意味が、「雨の間はずっと」という意味に変換できるような注釈をつけるというアイデアなどが考えられるかもしれない。しかしこれでは依然として日常言語においてなぜこのようなことが生じてしまうのかという問題への回答にはならない。
こうしてみると、推論の心理学は、まだまだ言語学や論理学から学ぶべきことが多いように思える。心理学では、これまではなぜ人間の推論は、論理学などの規範から逸脱しやすいのかということが主として論じられてきた。しかし、論理学自体あるいは、それと日常使用言語との相互作用に注目することによって、より新たな発展が期待されるかもしれない。
関連記事
パリでのカンファレンス(2)ー2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities