2023年10月23日月曜日

パリでのカンファレンス(3)ーDaniel Lassiterのキーノートから

  20239月のHuman and Artificial Rationalitiesのカンファレンスでは、3件のキーノートがあった。そのうち、印象に残ったのは、言語学者のDaniel LassiterThe crucial role of linguistics in reasoning studiesというタイトルでのトークである。私が言語学者の研究発表に触れるのは、これまでは主として日本認知科学会である。しかし、ここ15年ほどはこの学会に足が遠のいているので、このような話を聞くことができたのは久しぶりで、消化不良でもあるが、面白かった。

 条件文推論において、人間が非規範的な誤りを犯すことはよく知られている。しかし一方で、規範通りの推論のはずが、日常言語として受け入れることができなくなるというのが、Lassiterの問題提起である。たとえば、「If A, then B」かつ「A」から「B」を導くのは、Modus Ponensと呼ばれ、論理学では鉄板の論理式である。このABには何を代入しても、成り立つはずである。「もし雨ならば、マイクは傘をさす」かつ「雨」からは、「マイクは傘をさす」を導くことができるのは、誰が見ても明白だろう。ところが、「もし雨ならば、マイクは常に傘をさす」かつ「雨」ならどうだろうか。Modus Ponensにしたがえば、結論は「マイクは常に傘をさす」となる。しかし、この結論には違和感を抱かないだろうか。その理由は、「常に」の意味が異なってしまっているからである。If節の中で使用されると、雨が降るというあらゆる機会において「常に」という意味になっているが、結論では、マイクが常に傘をさすという習慣が真であるという意味に変容しているからである。If節がなければ、「常に」は習慣を表現するのがデフォルトなのである。

 この問題は、形式のみからの議論では解決は期待できない。コンテクストと意味論からのアプローチが必要になってくる。一般に、「常に」のような量化副詞は、If節の中で使用されると、If節は、これによって「常に」の量化領域が制限されるというように解釈される。この例の場合には、「雨降りというあらゆる機会において」というように量化されているわけである。そこで、習慣的日常言語において、このような量化の変容が生ずるということを受け入れた上で、論理式の再定式化が必要になってくる。Modus Ponensの鉄板化のためには、If節の中の「常に」の意味が、「雨の間はずっと」という意味に変換できるような注釈をつけるというアイデアなどが考えられるかもしれない。しかしこれでは依然として日常言語においてなぜこのようなことが生じてしまうのかという問題への回答にはならない。

 こうしてみると、推論の心理学は、まだまだ言語学や論理学から学ぶべきことが多いように思える。心理学では、これまではなぜ人間の推論は、論理学などの規範から逸脱しやすいのかということが主として論じられてきた。しかし、論理学自体あるいは、それと日常使用言語との相互作用に注目することによって、より新たな発展が期待されるかもしれない。

 

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パリでのカンファレンス(2)2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities

2023年10月14日土曜日

ハマスの暴虐に抗議する

 日本においては、リベラルはパレスチナ支持で、イスラエルを応援すると極右のレッテルを貼られることがある。そうすると大学などに勤務している人間はイスラエルを支持しにくいのかもしれないが、この2023年の10月に起きたハマスの、イスラエルに侵入しての暴虐行為は断じて許されるものではない。それにもかかわらず、ハーバード大学の一部学生団体がイスラエルの反撃を非難する声明を出したりしているが、こうなるとリベラルも自分の思考をリベレートしていないのではないかと思える。この暴虐行為は、ただのテロではなく、ホロコーストあるはジェノサイドである。なぜ原理主義者たちはこうなりやすいのか、なぜガザにおいて原理主義者が育ちやすいのかという問題は置いておいて、ここではイスラエルの大学の学長連合が表明した共同宣言を紹介したい。以下は、その全文の拙訳である。

 

わが朋友、全世界の大学学長へ

 困難な時を迎えた。私たちは、あなたたちの多くからいただいた支持や懸念について感謝している。

 周知のとおり、先週土曜日の早朝、ハマスはイスラエル国内で主に民間人に対して異常に残忍かつ暴力的な攻撃を行った。一部の学術機関の指導者らが公的な非難を発表している一方、他の機関では、これが、イスラエル人とパレスチナ人の間の多視点から理解可能な現在進行中の紛争における「また一つ加わった事件」にすぎないとみなされていることが分かっている。

 これは真実とは程遠いということを強調したい。これは特異的に野蛮な暴力行為であり、徹底的に絶たねばならない。なぜそうなのかを示すためには、バイデン大統領の演説で言及され、現在国際報道で明らかになっている、いくつかの真実の懸念詳細を共有する必要がある。私たちは、これらのことが私たちを揺るがしたのと同じくらい、あなたたちを不安に陥れるということを知っている。

 安息日と仮庵祭の休日、そして運命のヨム・キプール戦争 (第四次中東戦争) からほぼ50年が経った日に、ハマスはガザからイスラエルにロケット弾による奇襲攻撃を行い、その攻撃は北のテルアビブとエルサレム地域にまで及んだ。彼らは国境を突破し、国境を越えたイスラエル国内のコミュニティに住む女性、高齢者、子ども、若い家族などを残忍に虐殺した。 何百人もの、音楽祭に参加する子どもたち、平和活動家、80代のお年寄り、幼児をである。 多くはその場で虐殺され、あるいは発見されて殺されるまで何時間も家の中で身をかがめていたり、死の脅威に絶えずさらされて自宅やコミュニティで人質に取られたり、捕虜になってガザに連れてこられた人もいた。ガザのハマスが投稿した恐ろしいビデオには、負傷した人質が大歓声の街頭を練り歩かされる様子や、子どもたちへの残虐行為、高齢者への嘲笑、強姦や拷問などが映されている。

 これはすべて、ユダヤ人の町とベドウィンやアラブ人の村の両方を襲った無差別ロケット弾発射により、数百人のイスラエル人が負傷または死亡したことによるものである。つい2日前、アブ・ゴーシュ村のモスクがロケット弾の攻撃を受けた。

 はっきりさせておこう。これは「いつもの戦争」でも、イスラエル・パレスチナ紛争の単なる新たな一章でもない。「双方の側に良い人間」はいない。

 ハマスとイスラム聖戦は、タリバンやイスラム国を彷彿とさせる残忍で野蛮な組織であることが証明されている。私たちは、イスラエル以外の国々の一部のキャンパスで、ハマスやイスラム聖戦の行動を支援するために教員や学生が主導的に行っていることを聞いている、そのような支援の兆候に対して学術指導者から常に明確な反応があったわけではないことを理解している。アルカイダやイスラム国への支援がないのと同様、西側の民主主義社会ではそのようなテロ組織への支援はありえないということに、あなたたちも同意していただければ幸いである。民間人の意図的な虐殺や民間人を人質にとる行為を支持することはできない。

 高等教育と学術界の守護者として、人類の利益のため積極的に知識を追求し、明日のリーダーシップのロールモデルおよび教師として、私たちはすべて、コミュニティを教育する責任を共有してる。

 私たちはどのような価値観を伝えているのだろうか。それは、無条件に言論の自由と学問の自由である。しかし、民間人に対して行われる野蛮な暴力に対する抵抗というスタンスは加わるだろうか。私たちは、あなたたちもそのような暴力行為の放棄に協力してくださっていることを知っている。

2023年10月7日土曜日

パリでのカンファレンス(2)ー2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities

  国際共同研究加速基金(B)によって、昨年もパリでHuman and Artificial Rationalitiesのカンファレンスに参加したが、このカンファレンスは、2回目と銘打って今年も行われた (2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities)。なお、2024年には3回目も開催で、917-20日の日程で行われる予定である。本科研の海外拠点はツール大学で、そちらでは共同研究も進行中だが、今回の渡仏では、このカンファレンスのほうがプロジェクトに組み入られる形となって、主目的となった。2回目は4日間という日程で、参加者も随分と増えた。

 このカンファレンスは、テーマ題目にもあるように、合理性を人間側だけではなく人工側 (主としてコンピュータやロボット) からのアプローチにも注目している。とくに、ここ近年の深層学習を取り入れたチャットGPTに見られるAI側の発展には目を見張るものがあり、1980年代の認知心理学とAIの蜜月、すなわちAI側は認知心理学の知見を利用してより人間の柔軟さを取り入れたプログラムの開発を試み、認知心理学側はAIプログラムの成功・失敗から人間の認知において用いられる原理を模索するという両者の関係を再び夢見ているのかなと思ったが、このカンファレンスでは、AI側のそのような発表は少なかった。その代わり、現代における切実な問題として、AIとどのように付き合うのか、言い換えれば、どのようにAIやロボットを使用するのかあるいはそのお世話になるのかという発表や、使いやすいAIやロボットはどのようなものかという発表が多かった。

 私の発表は、Are humans moral creatures? A dual-process approach for natural experiments of history.というタイトルである。これは、これまで書籍『生きにくさはどこから来るのか』やAdapting Human Thinking and Moral Reasoning in Contemporary Societyにおいて書いてきたことを、二重過程理論における内省的システムが直感的システムをどのように制御するのかという問題を軸とし、歴史における自然実験を材料にして、「人間は道徳的な生き物なのか」という問いかけを行うものであった。「歴史における自然実験」では、一般に独立変数が設定されている場合が多い。たとえば、ある国において、特定の制度を取り入れた地域と取り入れなかった地域で、その後の発展 (これが従属変数になる) がどのように異なったのかを検討するような研究が代表的だろう。しかし私が用いたのは、大きな社会的変化 (従属変数) があった場合、どのような要因が独立変数となっているのかを、内省的システムの制御という視点から検討するという手法である。つまり、モラルが向上されたとする18世紀ヨーロッパの啓蒙の時代と人権の大きな高揚が見られる第二次世界大戦後を材料として、それを内省的システムの制御として内省的システムを機能させた独立変数を探り、小説の普及とそれを理解するマインドリーディングを内省的システムが制御させた結果であるとする結論が導かれた。“Are humans moral creatures? という問いかけに対する回答は、yesである。

 

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