2022年10月20日木曜日

論文発表数の減少(4)―論文数が減少するとなぜ都合が悪いのか (人文・社会科学編)?

  以前の投稿で、コンピュータ科学をはじめとする自然科学系の研究論文の日本における減少の問題点を指摘したが、では人文・社会科学領域ではどうだろうか。まず指摘しなければいけないのは、人文・社会科学領域では、残念ながら日本発で国際学術誌に掲載される論文が極めて少ないという事実である。この理由は、日本におけるこれらの研究が「遅れて」いるからなのか、政治や経済・社会・文学など、日本特有の現状や要因があって国際学術誌で発表する意義が大きくないからなのか、さらには人文・社会科学領域で英語の論文を書こうとすると、自然科学系と比較して、慣れないレトリック等の困難さがはるかに大きいからなのか、私にはよくわからない。いずれにしろ、一昨年、日本学術会議の任命拒否問題が起きたとき、説明なしの任命拒否はひどいとは思ったが、一方で拒否された学者たちの国際的発信力のなさ (要するに、国際学術誌での論文がほとんどない) に唖然とした記憶がある。

 人文・社会科学における国際学術誌での論文減少の最も大きな問題は、文化的グローバル化の中で文化多様性の理解が求められる現代社会において、日本からの発信が少なければ日本の文化的価値を海外で認識してもらうという機会が少なくなるという点だろう。日本の政治や経済はなぜこうなのか、日本人の文化的価値観はなぜこうなのか。これを知ってもらうことは、日本への誤解や偏見の解消につながるだけではなく、一方で文化的に相対化する中で、日本人型システムを修正していく方向にも結びつく。今や、日本の多くの作家の小説が海外で翻訳され、またアニメなども人気が高い。これらは日本文化を伝えることに大きな役割を果たしていると思われるが、学術の世界においてそれが必要だ。

 もう一つの問題は、国際学術誌における日本の論文数の減少によって、学術誌上での文化的価値戦や歴史戦で、日本あるいは民主主義的価値を共有する国々が、不利な立場に追いやられるという可能性である。この点で思い起こさせられるのは、マーク・ラムザイヤによる従軍慰安婦についての論文である。これについて私は素人なので、彼が正しいのか、批判側が正しいのは判断できないが、少なくとも査読者は論文として掲載するに値すると判断したわけであり、批判するとすれば、学術論文形式での批判が妥当だろうと思う。国際学術誌上では、このような論争は至るところで起きているが、発信がないほうが敗北となる。

 論文数が少ないということは、国際誌での日本人査読者の割合も減少し、編集委員に名前を連ねる日本人が相対的に少なくなるということである。そうなると、一部の独裁国家がアカデミアの世界で世論をリードするということが起きうる。「西欧の民主主義は資本主義経済と結びつき、人類を滅ぼす」という主張で、やんわりと西欧民主主義を攻撃するものから、「ウクライナは法的にロシアの領土である」というようなプーチンが泣いて喜びそうな論文などが、独裁国家出身者による査読を経ると国際誌に掲載されやすくなる。また、私自身、ここ数年かなりの論文を査読しているが、その中でウイグル人によるテロリズムに対する恐怖を必要以上にあおるようなもの (そして、やんわりと収容所での教育を肯定している) に遭遇したことがある。これは、出版社と連絡を取ったうえで倫理的問題が感じられる理由から棄却してもらったが、もし中国共産党関係者が査読をすれば、発表されていたかもしれない。

 スティーヴン・ピンカーは、21世紀を戦争が消滅した新しい平和の時代と呼んだが、ここへ来て、武力を背景にして民主的な国々に圧力をかけようとする独裁国が台頭している。そのような中で、国際誌で発表される人文社会系の学術論文は、世界の世論をリードするものである。日本人には、それへのさらなる貢献が必要だろう。

 

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