2022年2月8日火曜日

『馬・車輪・言語』を読む(2)―印欧祖語の源郷

  前回の記事では触れなかったが、デビッド・アンソニーの『馬・車輪・言語』は、考古学のデータから印欧祖語を明らかにしようと書かれたものである。印欧祖語とは、インドからヨーロッパにかけての言語の共通の祖語である。恥ずかしながら、以前は私は、32万年前のホモ・サピエンスの移動の中で印欧祖語がまずウラル・アルタイ系言語と分岐して使用されたと考えていて、もしそのような祖語が存在したとしても、少なくとも1万年以上も前のことだと想像していた。また、私が漠然と知っていたのは、約9000年前の古代アナトリアが印欧祖語の源郷であるとするアナトリア仮説だった。アナトリア高原がヨーロッパへの農業の伝搬の中継地と推定されているので、アナトリア仮説は説得力があったが、それでも9000年前という推定は新しすぎるのではないかと思っていた。

 しかし、『馬・車輪・言語』の中では、クルガン仮説が、ここ20年程の考古学的発見を根拠として主張されている。クルガン仮説では、南ロシアを中心とする新石器時代後期から鉄器時代にかけてのクルガンと呼ばれる墳墓を特徴としているクルガン文化の担い手の人々の間で使われた言語が印欧祖語であるとされている。前回の記事で述べたように、この地域では、BC4000年ころに乗馬が習慣化され、車輪が発明されている。この黒海北岸からカスピ海北岸へと続く草原で四輪荷車に居住する人々が話していた言語が、その後、インドからヨーロッパに至る地域に広がっていったと推定されているわけだ。この地域の特徴として、クルガンのような墳墓は見つかっているが、集落遺跡が少ないということが指摘され、四輪荷車による新しい牧畜と移動生活が行われていたことが推定される。

 この印欧祖語の話し手であった牧畜民は、馬の飼育・騎乗をし、長距離移動が可能であり、家畜に価値をおき、政治的インフラを整えていた。また、交易によってエーゲ海の首長社会ともつながり、海上交通による遠隔交易で、白ガラスビーズや青銅器の武器なども所持していた。他の地域と比較して豊かなうえに、騎乗やチャリオットによって武力も兼ね備えていたので、前印欧諸語の話し手の人々の土地に、比較的短期間の間に入り込んでいったと推定される。武力的征服のケースもあれば、富を誇示する宴会などによって土着の人々が印欧祖語に乗り換えるというケースもあっただろう。印欧祖語に関連するアイデンティティが模倣され、それ以外の言語文化が社会集団の中で蔑視され、言語交替が起きて前印欧諸語が衰退していった。それらの中で、現在も生き残っているのは周辺地域のバスク語とドラヴィダ語だけである。

 インド・イラン語派、イタリック語派、ケルト語派、ゲルマン語派、スラブ語派、バルト語派などが印欧祖語から分岐したと推定できるのは、語彙の共通性であり、その特徴的なものが、羊毛、牧羊、車輪などについての語彙である。これらの特徴的語彙からも、クルガン文化の担い手の人々が住んでいた黒海北岸からカスピ海にいたる草原が、印欧祖語の源郷ではないかと推察できるわけである。さらに、その地方で行われていたと推定される供儀の細部が古代インドの聖典でBC1500年から1300年前に書かれたリグヴェーダの記述と類似しているようだ。なお、車輪についての語彙は、後にヒッタイト語やリュディア語が分派したアナトリア語派にはない。アナトリア語派は、車輪が発明される以前に印欧祖語から分岐していて、印欧祖語の仲間ではある。しかし、このことから、アナトリアを印欧祖語の源郷とするアナトリア仮説は支持しにくいという結論が導かれる。

 『馬・車輪・言語』は、たとえば土器などのさまざまな出土品の分析など、素人にはとてもついていけない記述も多いが、文化や言語の伝播についての私自身の知識を大きく更新してくれた。

 

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