2022年2月12日土曜日

ピュアで一途で酷薄に―大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の印象

  三谷幸喜には、これまでの大河ドラマ『新選組!』や『真田丸』、映画の『清須会議』、『ステキな金縛り』、『ラヂオの時間』、『記憶にございません』などでずいぶんと楽しませてもらった。ちょっと遊びが多すぎるかなという印象もあるが、笑いと人間模様を追求したドラマや映画はどれも見応えがある。

 大河ドラマは、今年は三谷幸喜脚本の『鎌倉殿の13人』ということで、源頼朝や義経を主人公とするのではなく、また初代執権の北条時政、尼将軍と呼ばれた政子、御成敗式目を制定した北条泰時などと比較すると、地味感がある北条義時の視点で描かれている。そして、非常に興味深いのは、現時点で、小栗旬が野心や野望とは無縁な穏やかな青年義時を演じている点である。なぜ興味深いのかといえば、史実では、今後、この13人の何名かを含む多くの武士たちが非業のうちに命を落とすが、その陰謀や謀略に、義時が相当かかわっていると思われるからである。

 そもそも鎌倉幕府の成立に至るまでとそれ以降も、相当な数の武士たちが殺されている。源頼朝の縁者だけでも、叔父の行家、異母兄弟の義経と範頼、子の頼家と実朝が殺された。また13人の中の梶原景時、比企能員、和田義盛、さらには有力御家人の仁田忠常や畠山重忠が討たれている。和田義盛は、義時に挑発を受けて挙兵せざるをえなくなり、攻め滅ぼされたようだ。この殺生の多さは、戦国時代から戦いが終息して江戸幕府が成立する過程と比較しても、格段に血生臭い。武士階級が出現してまだ日も浅く、武士としてのモラルや倫理観が未成熟だったのだろうか。この義時がどのように変化していくのかを、小栗旬がどうやって演ずるのかは、非常に興味深い。穏やかな義時が、敵をおびえるようにして殺していくのか、それとも時折酷薄な一面を見せながら殺していくのか、今後が楽しみである。

 酷薄といえば、新垣結衣が演ずる頼朝の最初の子を産んだ八重である。父である伊東祐親の命で江間次郎に嫁いだが、頼朝に対する想いは強く、頼朝支援のために夫を無理やりにこき使うという酷薄さは印象に残った。新垣結衣は、ピュアで一途でありながらどこか酷薄という、現代人の感覚からすると理解しにくい心情を非常にうまく演じているのではないかと思う。富士川合戦の後、江間次郎は討たれてその所領は義時のものとなるが、八重はその後どうなるのだろうか、それを新垣結衣がどのように演じていくのだろうか。非常に気になるこの先の展開である。一途で酷薄といえば、『新選組!』で山本耕史が演じた土方歳三もそれにあてはまるかもしれない。山本耕史は、『鎌倉殿の13人』では三浦義村を演じ、義時の生涯の盟友となるようだが、すでにドライな冷酷さを各処に見せている。今後、義時が酷薄になっていく背後にリアリストの義村を位置付けるのだろうか。

 なお、ここで私は、「酷薄」を、「残虐」あるいは「残酷」と区別している。一途で熱い残酷・残虐性なら戦国時代にも江戸時代にも多い。吉良上野介を討った大石内蔵助が典型的な例である。一方、酷薄は、敵への怒りをさほど感じていないにもかかわらず、無慈悲に殺してしまうときの心情を指す。子どもが無造作に虫を殺したりする感覚に近い。誰が死のうが苦しもうが自分には関係ないというスタンスで、公家が庶民に見せる態度に「酷薄」の典型があるように思える。鎌倉武士あるいはそれに関係する人たちには、武力を身につけた公家の延長ということで、こういう酷薄さが当然だったのかもしれない。

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