2022年2月27日日曜日

「新しい平和」の崩壊―プーチンはウクライナ侵攻をやめよ

 スティーヴン・ピンカーは、『暴力の人類史』の中で、第二次世界大戦以降の状態を、大戦がないという「長い平和」、今世紀に入ってからの小規模な戦争さえも起きていない状態を「新しい平和」と呼んでいる。第二次世界大戦の後の東西の冷戦時代は、朝鮮戦争やヴェトナム戦争、ボスニア紛争などがあったが、幸い第三次世界大戦は起きなかった。さらに21世紀になってからは、国同士の本格的な戦争は起きてはいなかった。ところが、まさかと思っていたが、ロシアがついにウクライナに侵攻した。私は軍事や外交の専門家ではないが、この「長い平和」や「新しい平和」がなぜ維持されていたのかという視点で、この侵攻について考えてみたい。

 戦争を抑止する大きな要因の1つが、リヴァイアサンの存在である。17世紀の欧州で戦乱が激減したり、江戸幕府によって戦国時代が終結したりした理由の1つが、強力な王権や幕府というリヴァイアサンの誕生である。小規模領主が隣国に戦争を仕掛けようとしても、王や幕府が許さなかったのである。21世紀の「新しい平和」は、米国という強大国がリヴァイアサンの役割を果たしてきたと思えるが、プーチンによるウクライナ侵攻は、この米国のリヴァイアサン機能の低下が最大の背景要因であろう。とくに、バイデン大統領が、ウクライナの問題に武力介入しない旨を明言してしまったことは直接の要因かもしれない。

 「新しい平和」の最大の要因は、経済的相互依存である。1960年以降、国際貿易量の対GDP比が増大していることからもわかるが、国家間の経済的相互依存度が非常に高くなっている。相互依存は国際的分業と並行しており、1つの国で自給自足的に経済を動かすことが不可能になっていて、他国と関係を悪化させるわけにはいかない。このような状況で戦争をすると、負ければもちろん大きな損害を被るが、勝ったとしても損害は決して小さいわけではない。負けた国の友好国からは国交断絶など、さまざまな制裁を受ける可能性がある。実際、今回の侵攻によって、SWIFTからロシアの銀行が排除される。専門家は、この効果が現れるには時間がかかると述べているが、ロシアで経済を動かしている人々は、この危機を敏感に感じているはずだ。彼らがプーチンを止めてくれないだろうか。

 そもそも、東欧の国々やバルト三国がNATOに加盟した理由は、スターリンの直接の被害を受け、現在も独裁的なロシアを怖れているからである。プーチンは、ウクライナにNATO加盟して欲しくなければ、自らの独裁を放棄すべきであって、ウクライナにNATO加盟するなと脅すのは、プーチンはそう思っていないかもしれないが、国家主権の侵害である。

 この侵攻で、希望の灯となっているのは、ロシアにもこの侵攻に反対している人々が大勢いることである。また、ウクライナ侵攻が思うように進まなければ、ロシア軍内部にも厭戦気分が蔓延してくる可能性もある。これらの勢力が、プーチン政権を崩壊させてくれるのが最も望ましい解決である。被害者が増えることを想像すると、ウクライナに頑張ってほしいとは言いにくいが、現代の戦争はハイテクが勝敗を決する。西側の国が直接武力援助できなくても、ハッカー集団アノニマスのように、コンピュータで優位に立つようなサポートをすれば、独裁者の野望を打ち砕くことが可能ではないかと信じたい。

2022年2月12日土曜日

ピュアで一途で酷薄に―大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の印象

  三谷幸喜には、これまでの大河ドラマ『新選組!』や『真田丸』、映画の『清須会議』、『ステキな金縛り』、『ラヂオの時間』、『記憶にございません』などでずいぶんと楽しませてもらった。ちょっと遊びが多すぎるかなという印象もあるが、笑いと人間模様を追求したドラマや映画はどれも見応えがある。

 大河ドラマは、今年は三谷幸喜脚本の『鎌倉殿の13人』ということで、源頼朝や義経を主人公とするのではなく、また初代執権の北条時政、尼将軍と呼ばれた政子、御成敗式目を制定した北条泰時などと比較すると、地味感がある北条義時の視点で描かれている。そして、非常に興味深いのは、現時点で、小栗旬が野心や野望とは無縁な穏やかな青年義時を演じている点である。なぜ興味深いのかといえば、史実では、今後、この13人の何名かを含む多くの武士たちが非業のうちに命を落とすが、その陰謀や謀略に、義時が相当かかわっていると思われるからである。

 そもそも鎌倉幕府の成立に至るまでとそれ以降も、相当な数の武士たちが殺されている。源頼朝の縁者だけでも、叔父の行家、異母兄弟の義経と範頼、子の頼家と実朝が殺された。また13人の中の梶原景時、比企能員、和田義盛、さらには有力御家人の仁田忠常や畠山重忠が討たれている。和田義盛は、義時に挑発を受けて挙兵せざるをえなくなり、攻め滅ぼされたようだ。この殺生の多さは、戦国時代から戦いが終息して江戸幕府が成立する過程と比較しても、格段に血生臭い。武士階級が出現してまだ日も浅く、武士としてのモラルや倫理観が未成熟だったのだろうか。この義時がどのように変化していくのかを、小栗旬がどうやって演ずるのかは、非常に興味深い。穏やかな義時が、敵をおびえるようにして殺していくのか、それとも時折酷薄な一面を見せながら殺していくのか、今後が楽しみである。

 酷薄といえば、新垣結衣が演ずる頼朝の最初の子を産んだ八重である。父である伊東祐親の命で江間次郎に嫁いだが、頼朝に対する想いは強く、頼朝支援のために夫を無理やりにこき使うという酷薄さは印象に残った。新垣結衣は、ピュアで一途でありながらどこか酷薄という、現代人の感覚からすると理解しにくい心情を非常にうまく演じているのではないかと思う。富士川合戦の後、江間次郎は討たれてその所領は義時のものとなるが、八重はその後どうなるのだろうか、それを新垣結衣がどのように演じていくのだろうか。非常に気になるこの先の展開である。一途で酷薄といえば、『新選組!』で山本耕史が演じた土方歳三もそれにあてはまるかもしれない。山本耕史は、『鎌倉殿の13人』では三浦義村を演じ、義時の生涯の盟友となるようだが、すでにドライな冷酷さを各処に見せている。今後、義時が酷薄になっていく背後にリアリストの義村を位置付けるのだろうか。

 なお、ここで私は、「酷薄」を、「残虐」あるいは「残酷」と区別している。一途で熱い残酷・残虐性なら戦国時代にも江戸時代にも多い。吉良上野介を討った大石内蔵助が典型的な例である。一方、酷薄は、敵への怒りをさほど感じていないにもかかわらず、無慈悲に殺してしまうときの心情を指す。子どもが無造作に虫を殺したりする感覚に近い。誰が死のうが苦しもうが自分には関係ないというスタンスで、公家が庶民に見せる態度に「酷薄」の典型があるように思える。鎌倉武士あるいはそれに関係する人たちには、武力を身につけた公家の延長ということで、こういう酷薄さが当然だったのかもしれない。

2022年2月8日火曜日

『馬・車輪・言語』を読む(2)―印欧祖語の源郷

  前回の記事では触れなかったが、デビッド・アンソニーの『馬・車輪・言語』は、考古学のデータから印欧祖語を明らかにしようと書かれたものである。印欧祖語とは、インドからヨーロッパにかけての言語の共通の祖語である。恥ずかしながら、以前は私は、32万年前のホモ・サピエンスの移動の中で印欧祖語がまずウラル・アルタイ系言語と分岐して使用されたと考えていて、もしそのような祖語が存在したとしても、少なくとも1万年以上も前のことだと想像していた。また、私が漠然と知っていたのは、約9000年前の古代アナトリアが印欧祖語の源郷であるとするアナトリア仮説だった。アナトリア高原がヨーロッパへの農業の伝搬の中継地と推定されているので、アナトリア仮説は説得力があったが、それでも9000年前という推定は新しすぎるのではないかと思っていた。

 しかし、『馬・車輪・言語』の中では、クルガン仮説が、ここ20年程の考古学的発見を根拠として主張されている。クルガン仮説では、南ロシアを中心とする新石器時代後期から鉄器時代にかけてのクルガンと呼ばれる墳墓を特徴としているクルガン文化の担い手の人々の間で使われた言語が印欧祖語であるとされている。前回の記事で述べたように、この地域では、BC4000年ころに乗馬が習慣化され、車輪が発明されている。この黒海北岸からカスピ海北岸へと続く草原で四輪荷車に居住する人々が話していた言語が、その後、インドからヨーロッパに至る地域に広がっていったと推定されているわけだ。この地域の特徴として、クルガンのような墳墓は見つかっているが、集落遺跡が少ないということが指摘され、四輪荷車による新しい牧畜と移動生活が行われていたことが推定される。

 この印欧祖語の話し手であった牧畜民は、馬の飼育・騎乗をし、長距離移動が可能であり、家畜に価値をおき、政治的インフラを整えていた。また、交易によってエーゲ海の首長社会ともつながり、海上交通による遠隔交易で、白ガラスビーズや青銅器の武器なども所持していた。他の地域と比較して豊かなうえに、騎乗やチャリオットによって武力も兼ね備えていたので、前印欧諸語の話し手の人々の土地に、比較的短期間の間に入り込んでいったと推定される。武力的征服のケースもあれば、富を誇示する宴会などによって土着の人々が印欧祖語に乗り換えるというケースもあっただろう。印欧祖語に関連するアイデンティティが模倣され、それ以外の言語文化が社会集団の中で蔑視され、言語交替が起きて前印欧諸語が衰退していった。それらの中で、現在も生き残っているのは周辺地域のバスク語とドラヴィダ語だけである。

 インド・イラン語派、イタリック語派、ケルト語派、ゲルマン語派、スラブ語派、バルト語派などが印欧祖語から分岐したと推定できるのは、語彙の共通性であり、その特徴的なものが、羊毛、牧羊、車輪などについての語彙である。これらの特徴的語彙からも、クルガン文化の担い手の人々が住んでいた黒海北岸からカスピ海にいたる草原が、印欧祖語の源郷ではないかと推察できるわけである。さらに、その地方で行われていたと推定される供儀の細部が古代インドの聖典でBC1500年から1300年前に書かれたリグヴェーダの記述と類似しているようだ。なお、車輪についての語彙は、後にヒッタイト語やリュディア語が分派したアナトリア語派にはない。アナトリア語派は、車輪が発明される以前に印欧祖語から分岐していて、印欧祖語の仲間ではある。しかし、このことから、アナトリアを印欧祖語の源郷とするアナトリア仮説は支持しにくいという結論が導かれる。

 『馬・車輪・言語』は、たとえば土器などのさまざまな出土品の分析など、素人にはとてもついていけない記述も多いが、文化や言語の伝播についての私自身の知識を大きく更新してくれた。

 

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『馬・車輪・言語』を読む(1)―中央アジアの草原にて

2022年2月3日木曜日

『馬・車輪・言語』を読む(1)―中央アジアの草原にて

  ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』では、ユーラシアの文明的発展の大きな要因の1つとして、長距離移動や輸送に利用できるウマの存在が指摘されている。その時点で、私は、野生のウマがいてそれが家畜化されたとしても、中央アジアの草原自体ではあまり文明的発展がなく、どのようにそれがユーラシアの発展に結びついたのかという素朴な疑問を抱いた。また、梅棹忠夫『文明の生態史観』では、中央アジアの草原や砂漠は、野蛮と暴力の根源のような描かれ方をしている。そこで、「ウマの家畜化がメソポタミアやギリシャ・ローマ世界に伝わり、そこで文明が花開いた」というのが、この矛盾に折り合いをつけるための私の想像だった。しかし、デビッド・アンソニーの『馬・車輪・言語』を読むと、これが間違いだったことがわかる。

 中央アジアの考古学の成果が知れわたるようになったのは、ソビエト連邦崩壊の後で、特にここ20年程の間 (したがって『銃・病原菌・鉄』が出版された1997年にはまだあまり知られていない) に、様々な発見が西側諸国に知られるようになったようだ。黒海北部からウラル山脈にかけての草原や砂漠には野生種のウマがいたが、それが家畜化されたと推定されるのがBC4800年ころである。これを突き止めたのは、著者のアンソニーで、彼は、ハミ痕があるウマの骨の分析からこの時代を推定している。ヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシの家畜化よりは遅いようだ。乗馬の起源は、BC43004000年と推定されており、たとえば、牧羊犬を1匹連れていれば200匹のヒツジを管理できるが、それに騎乗が加わると、管理できるヒツジは500匹に増えるらしい。

 この乗馬以降の最も大きな発明は車輪であり、車輪をつけた荷車をウマに引かせると、これまでよりはるかに効率的に食糧や物資を輸送することが可能になる。この地域は、騎乗開始以前から銅の交易が盛んだったが、四輪荷車をウマに引かせることによって交易が益々盛んになったと推定できる。

 乗馬は戦いにも有利である。この時代のこの地域では大きな戦争があったわけではないが、部族間の闘争において、ウマを使用すると襲撃と逃走に断然有利になる。さらに、この騎馬牧畜民は農耕社会も攻撃するようになるが、この構図は、貧しい牧畜民が豊かな農耕社会を寄生的に攻撃するというものではない。この牧畜民たちは、草原からの豊富な食料と金属細工の技術を持つ豊かな人々であった。人類で最初の都市を築いた豊かなメソポタミアに対しても、襲撃してくる野蛮人というわけではなく、豊富な地下資源で、ウルクなどの都市における銅、金、銀の需要を満たしていたようだ。

 かれらの、いわゆる騎馬民族の、武力を伴った居住地の拡張が、古ヨーロッパの終焉といえる大惨事を引き起こしたと考えられている。それまで、黒海北部の草原の西に位置するドナウ川流域では、ビーナスと呼ばれる女性小像が多かった、それが作られなくなった。明らかに騎馬民族の侵入によるものである。さらに、BC2100年ごろに、チャリオットと呼ばれる二輪戦車が戦争に使用されるようになり、彼らの軍事的優位はさらに高まることになった。彼らはたしかに戦闘では強く、その結果として侵入に有利だったようだが、野蛮人が文明人を襲ったというわけではなさそうだ。なお、下の写真は、チャリオットを使用したライオン狩りを描いたアッシリアのレリーフで、私が大英博物館で撮ったものである。BC700年ころと推定されていて、時代は随分と新しい。