スティーヴン・ピンカーは、『暴力の人類史』の中で、第二次世界大戦以降の状態を、大戦がないという「長い平和」、今世紀に入ってからの小規模な戦争さえも起きていない状態を「新しい平和」と呼んでいる。第二次世界大戦の後の東西の冷戦時代は、朝鮮戦争やヴェトナム戦争、ボスニア紛争などがあったが、幸い第三次世界大戦は起きなかった。さらに21世紀になってからは、国同士の本格的な戦争は起きてはいなかった。ところが、まさかと思っていたが、ロシアがついにウクライナに侵攻した。私は軍事や外交の専門家ではないが、この「長い平和」や「新しい平和」がなぜ維持されていたのかという視点で、この侵攻について考えてみたい。
戦争を抑止する大きな要因の1つが、リヴァイアサンの存在である。17世紀の欧州で戦乱が激減したり、江戸幕府によって戦国時代が終結したりした理由の1つが、強力な王権や幕府というリヴァイアサンの誕生である。小規模領主が隣国に戦争を仕掛けようとしても、王や幕府が許さなかったのである。21世紀の「新しい平和」は、米国という強大国がリヴァイアサンの役割を果たしてきたと思えるが、プーチンによるウクライナ侵攻は、この米国のリヴァイアサン機能の低下が最大の背景要因であろう。とくに、バイデン大統領が、ウクライナの問題に武力介入しない旨を明言してしまったことは直接の要因かもしれない。
「新しい平和」の最大の要因は、経済的相互依存である。1960年以降、国際貿易量の対GDP比が増大していることからもわかるが、国家間の経済的相互依存度が非常に高くなっている。相互依存は国際的分業と並行しており、1つの国で自給自足的に経済を動かすことが不可能になっていて、他国と関係を悪化させるわけにはいかない。このような状況で戦争をすると、負ければもちろん大きな損害を被るが、勝ったとしても損害は決して小さいわけではない。負けた国の友好国からは国交断絶など、さまざまな制裁を受ける可能性がある。実際、今回の侵攻によって、SWIFTからロシアの銀行が排除される。専門家は、この効果が現れるには時間がかかると述べているが、ロシアで経済を動かしている人々は、この危機を敏感に感じているはずだ。彼らがプーチンを止めてくれないだろうか。
そもそも、東欧の国々やバルト三国がNATOに加盟した理由は、スターリンの直接の被害を受け、現在も独裁的なロシアを怖れているからである。プーチンは、ウクライナにNATO加盟して欲しくなければ、自らの独裁を放棄すべきであって、ウクライナにNATO加盟するなと脅すのは、プーチンはそう思っていないかもしれないが、国家主権の侵害である。
この侵攻で、希望の灯となっているのは、ロシアにもこの侵攻に反対している人々が大勢いることである。また、ウクライナ侵攻が思うように進まなければ、ロシア軍内部にも厭戦気分が蔓延してくる可能性もある。これらの勢力が、プーチン政権を崩壊させてくれるのが最も望ましい解決である。被害者が増えることを想像すると、ウクライナに頑張ってほしいとは言いにくいが、現代の戦争はハイテクが勝敗を決する。西側の国が直接武力援助できなくても、ハッカー集団アノニマスのように、コンピュータで優位に立つようなサポートをすれば、独裁者の野望を打ち砕くことが可能ではないかと信じたい。