2022年1月30日日曜日

『善と悪のパラドックス―人の進化と自己家畜化の歴史』を読む (2)―いとこたちの専制

  前回の記事で家畜化の特徴についてまとめてみたが、本記事では、ヒトがどのようにして自己家畜化されたのか、『善と悪のパラドックス』の筆者のリチャード・ランガムの主張からまとめてみたい。

 進化の上で参考になるのは、ボノボとチンパンジーの対比だろう。彼らが進化的に分岐したのは約300万年前で、遺伝子上極めて近い種同士である。にもかかわらず、ボノボは、チンパンジーと比較して犬歯が小型化し、極めて攻撃性が低い。ランガムによれば、ボノボの非攻撃性の進化の大きな要因は生息地で、ボノボが棲むコンゴ川南岸は、山地が少なくゴリラがいないようである。そうすると攻撃性が強いゴリラと争う必要がなく、食べ物を仲間と分け合う習慣や、「ホカホカ」と呼ばれるメス同士の同性愛的行動が生まれたという可能性が指摘できる。さらに、このメス同士の同盟は、チンパンジーに見られるようなオスの暴力を抑制する力となり、攻撃性が抑制されてきたのではないかと推察できる。暴君のオスは、メス全体から排除されるというわけだ。

 ヒトの場合も、このような弱い立場とされる側が同盟によって強者の暴力を抑え込むことができたことが、自己家畜化の大きな要因であろう。この視点は、処刑仮説としてまとめられる。つまり、横暴な暴君が、被支配者側の同盟によって処刑されるという慣習によって、攻撃性が抑制されたとする仮説である。文化人類学などの調査の成果から、概して、小規模狩猟採集社会は、私たちが想像する以上に比較的平等で自由なようだ。しかし、この平等は、暴君などに対する私刑あるいは死刑によって支えられていると考えられている。このような社会では、死刑は秘密裡に行われ、関係者以外は、横暴な首長が消えたという事実しか分からないらしい。そして、暴君は殺されるらしいという噂だけが人々の間に伝えられて、「食べ物の独り占めは止めよう」などのモラルが浸透していく。

 これは、アーネスト・ゲルナーの用語を借用すれば、「いとこたちの専制」である。つまり、王を取り巻く実力者たち (古代社会では、いとこである場合が多いようだ) が、王を暴君にしないように見張り、権力がだんだんと集団合議制に移っていくという現象である。この「いとこたち」の代わりに、ボノボと同じように、女性の同盟によって暴君が処罰される場合もあったと思われる。ちなみに、本年度の大河ドラマである『鎌倉殿の13人』もそれに当てはまるかもしれない。なお、処刑仮説に対して、首長が集団内の評判を気にして攻撃性を抑制するという評判仮説も有力とされてはいる。しかし、大きな権力を握った暴君は評判を気にしないのでこの影響は少ないはずという問題点がこの仮説にはある。

 さらにヒトの場合は、社会的哺乳類として進化する中で、高い知能、高度な協調性、社会的学習といった能力を身につけた。これらの能力が、攻撃性はペイしないということの学習を可能にし、それが抑制されてきたのだろう。

 

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『善と悪のパラドックス―人の進化と自己家畜化の歴史』を読む (1)―家畜化の特徴

2022年1月20日木曜日

『善と悪のパラドックス―人の進化と自己家畜化の歴史』を読む (1)―家畜化の特徴

  これまで、ヒトにおける暴力や殺人がどのように歴史的に減少してきたのかを、二重過程理論における熟慮的システムによる攻撃性の制御として、私自身、いろいろと書いたり話したりしてきた。しかし、ヒトの進化レベルでの攻撃性の減少についての知識は空白のままだったので、リチャード・ランガムの原著 (The goodness paradox) の日本語訳が出版されたのを幸い読んでみることにした。

 ヒトは、ネコ、イヌ、ウシ、ウマ、ヒツジなどを家畜化してきたが、ヒトの攻撃性の減少に至る進化は、自己家畜化と呼ばれている。ヒトの進化における大きな特徴は、反応的攻撃の低下である。反応的攻撃は、能動的攻撃と区別され、挑発などへの反応としての攻撃で、衝動的である。一方、能動的攻撃は、計画された熟慮的な攻撃であって、家畜化によって抑制されるわけではない。反応的攻撃は、どちらかというと防御的で、多くの動物にも見られるが、ヒトの場合は、たとえばカッとなって殺人を犯してしまうような例があてはまり、感情を抑制する前頭前皮質の活動が不活発であることが一因である。一方、能動的攻撃は、たとえばネコ科の動物の狩猟があてはまる。この場合、獲物あるいは犠牲者への感情移入は起こらず、行動の後悔もない。ヒトでは、能動的攻撃を抑制する扁桃体の不活発がみられるサイコパスの攻撃が代表的な例になる。この攻撃性は進化的に抑制されず、ヒトにおいては、大規模な戦争やジェノサイド、計画的殺人として残っているというわけだ。

 家畜化についてのよく知られた実証的研究は、1950年代に行われたベリャーエフのものである。毛皮になるギンギツネの養殖で、おとなしい個体を掛け合わせ続けると、3035世代で、7080パーセントが従順になるという結果が知られている。また、おとなしくなると、星形変異と呼ばれる白いぶちが現れるのだが、これは神経堤細胞と呼ばれる細胞群の遊走パターンの変化によると推定されている。家畜化で遊走が止まると、メラニン色素を作らなくなって白いぶちが現れるようだ。

 自己家畜化によって、ヒトは、ペドモルフォーシス (幼形進化) と呼ばれる進化をたどってきた。これは、恐怖に対する反応が強くなる年齢の遅れ、遊び好き、学習の測度・効率の上昇を伴っている。さらに、協調的コミュニケーションに優れるようになるが、これはイヌやネコにも見られている。たとえば、 イヌはヒトの指差しをある程度理解でき、協調的コミュニケーションが可能である。ところが、イヌよりもはるかにヒトに近いはずのチンパンジーにはこの理解ができない。つまり、ヒトとの協調的コミュニケーションが可能かどうかは、ヒトに近い知能を持っているか否かよりも、家畜化によるペドモルフォーシスが重要というわけだ。

 以前の記事で、中央アジアにいたウマはヒトに馴れるが、アフリカのシマウマは絶対に人間に馴れないという理由を知りたいと述べた。つまり、「人間に馴れる」とはどういうことなのかを知りたかったのだが、本書はそれに現時点での研究成果による回答を与えてくれている。

 

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2022年1月2日日曜日

理論心理学会第67回大会を開催しました (2)―実行機能とメタリーズニング

  大阪市立大学で開催された理論心理学会第67回大会では、企画されたものとして、理事会企画シンポジウムのほか、準備委員会企画シンポジウムと基調講演が行われた。準備委員会企画シンポジウムは、菅村玄二先生と私が企画したもので、学際的研究が理論によって触発されるということを示すために、3名の話題提供の先生に、実行機能が理論として各領域での事象を説明するのに用いられていることをテーマにお話ししていただいた。実行機能とは、ワーキングメモリの下位システムの1つである中央実行系の働きとされ、情報の更新やルールのシフト、および自動的な出力の抑制が主たる機能とされている。

 実際、実行機能は多くの領域で「理論」の役割を果たしている。知能心理学では、IQテストに反映される一般知能とは何かという問題が議論されてきたが、実行機能はその有力な候補である。思考心理学では、不良定義問題における計算の爆発に対する限界認知容量という概念が求められて来たが、実行機能はそれにフィットする。また、感情・欲求心理学や臨床心理学では、セルフコントロールが議論されているが、実行機能が大きな役割を果たしていることが提唱されている。神経基盤研究では、実行機能は前頭前野の局在が推定されている。さらに、哲学の重要な課題である「意識という難問」に対して、ワーキングメモリや実行機能は、何らかの視点を与えている。シンポジウムでは、関口理久子先生からはさまざまな行動パフォーマンスの予測理論として、川邉光一先生からは精神疾患モデル動物の行動を説明するための理論として、また、土田宣明先生からは加齢変化を説明するための理論として、実行機能が議論された。もちろん記憶研究者によって実行機能自体が説明対象ともなるが、このシンポジウムではその言及よりも、実行機能がどのようにグランドセオリー足りうるのかという点が追及されていた。

 基調講演は、時差が7時間のイスラエルからインターネットのライブで、Rakafet Ackerman先生が、Meta-Reasoning: How do people allocate their thinking efforts?というタイトルでお話しされた。人間が推理を行うときに、どのように心的努力を割り振るのかという判断が、推理のための推理ということでメタリーズニングと名前を付けられている。この働きを説明するために、二重過程理論では熟慮的システムのメタ部門である内省的なモニタシステムが想定されている。概してこの判断は、直感的で暫定的な解答への過剰確信によって歪められ、それ以上の熟慮的努力が注がれない結果となる。私自身は、この過剰確信にどういう意味での合理性があるのか個人的に知りたかったが、横道にそれてしまうからなのかこの点への追及はなかった。過剰確信は、おそらく実行のエネルギーになると同時に、周囲を説得・同調させるという点で適応的なのだろう。勝ち目がない戦いでも、メンバー全員が勝てると過剰確信していると、勝利する場合もある。

 心理学の研究は、それぞれの領域での精緻的な実証と理論化は重要である。しかし、ある程度の成果が集まれば、どきどきは振り返ってその背景にあるグランドセオリーは何なのかを思索するのも楽しい。理論心理学会は、その楽しみを追求できる学会なのではないかと思う。

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