2020年11月12日木曜日

「学問の自由」が脅かされるとき(2)―イデオロギーの問題

  現在の日本の大学に属していて、学問の自由が脅かされたと感じたことはほとんどない。卒業論文以来、指導教員に「何をしろ」と強制されたことはなく、自由そのものであった。大学院生の時は、さすがに指導教員が理解しにくいテーマを選ぶと、研究の進捗等においてやはりいろいろと困ったことがあるので、あまり外れないようにはしていた。しかし、指導教員と似たテーマあるいは理解できるテーマだといろいろと口を挟まれて鬱陶しいので、そういうテーマは選ばないというのが当時の学生・院生に共有されていた雰囲気だったと思う。

 したがって、教員になっても、学問は自由そのもので、これが脅かされるという感覚とは無縁だったように思う。ただ、ここ15年ほど、学問選択の自由というよりは、研究成果などの発表において、イデオロギーが気になるなと思うことはあった。イデオロギーに支配されると、どんな研究結果であれ、結論は一定の方向に決められてしまう。イデオロギーの困った点は、「○○は~でなくてはならない」という硬直した主張で、科学的根拠等がすっ飛んでしまうことである。

 独裁と結びついたイデオロギーはかなり怖く、実際に習近平下の中国では天安門はタブーだし、ウイグルやチベット、内モンゴルについての客観的・科学的な研究は不可能である。文学でもタブーは多く、日本に中国文学を研究しに来る中国人研究者は、中国で扱えない中国文学のテーマを研究しに来るようだ。また、韓国では文在寅が「歴史歪曲禁止法」という新しい法律を制定したが、これによって日本の植民地時代の研究にイデオロギーが縛りをかけた。植民地支配の遺産を肯定的に評価するような結果の研究だと、罰せられる可能性があるわけである。たとえば、日本の統治下に設立された京城帝国大学と現在のソウル国立大学の関係を調べる教育史的研究はかなり制約を受けるようだ。文在寅政権のこの現状をみれば、たとえばジャレド・ダイアモンドの『歴史は実験できるのか―自然実験が解き明かす人類史』の中に採録されている、英国によるインド統治の今日への影響についてのような研究は、到底行うことができないのではないだろうか。ただ、この研究では、英国の統治による地税徴収制度があった地域は経済の発展が遅れたという、統治の負の側面が浮き彫りにされているのだが。

 現在の日本でも、学問の自由を最も抑制しているのはイデオロギーだろう。「日本人は神の国」や「南京虐殺はなかった」は、まともな研究者は取り上げないだろうから、学界では比較的無害(国際的にはかなり有害だが)かもしれない。しかし、「生物学的な性差はあってならない」や「日本人が知的にもモラル的にも欧米人よりも劣っている」とするイデオロギーは、批判すると性差別主義者やレイシストのレッテルを貼られやすく(日本人が劣っているとするほうがよほどレイシストだと思うのだが)、まともな研究者がこのイデオロギーに対して口を閉ざすとなると、かなり研究の自由が奪われることになる。

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