2019年10月20日日曜日

台湾紀行(3)―植民地時代の製糖工場は強制労働か貴重な現金収入源か

 台南滞在中に訪問した印象に残った場所をもう1つ記したい。それは、日本の統治時代 (韓国では「日帝時代」と呼ぶが、台湾では「日治時代」と呼ぶ) に建てられた大規模な製糖工場の跡地で、台湾糖業博物館として見学ができるようになっている。植民地としての台湾における殖産興業として、台湾総督府が中心になって、サトウキビから砂糖を精製する企業を立ち上げたのだが、当時としては最新の製糖工場が建設されたようだ。第二次世界大戦後、日本本土に残された資産から台糖株式会社が、台湾に残された資産から台湾製糖公司が設立されたが、この台湾製糖公司の工場が1999年に生産を終えて博物館になっている。また、廃墟のような建物を用いて、十鼓という太鼓の演奏グループが公演も行っている。

 この工場は、近代的な産業がほとんど育っていなかった台湾における富岡製糸場あるいは八幡製鉄所のような位置づけとして、台湾の産業革命のシンボルのような存在である。そして、どの国においても産業革命の黎明期がそうだったように、この工場の労働者も過酷な状況で働かされていたようだ。工場の中に入ると、エアコンも効いてはいるのだが、ところどころむせ返るような暑気と湿気を感ずる。エアコンがない当時はさぞ暑かったのではないだろうか。また、当時の工場内だけではなくサトウキビ畑などで働いていた人々の写真なども展示されており、かなりの重労働が課されていた様子が伺われる。

 サトウキビ栽培と製糖というと、江戸期の薩摩藩による奄美あるいは琉球における黒糖への重税によって人々が過酷な状況に置かれていたイメージを重ね合わせてしまう。さらに台湾は、当時の日本の植民地だったわけである。富岡製糸場の女工哀史以上に、さぞかし人々に強制労働が課せられていたのではないかと想像できた。

 しかし一方で、「ああ野麦峠」に代表される女工哀史史観も、当時の近代的な産業化が、貧しい農業しかないという悲惨な状況から多くの人々を救ったという事実が指摘される中で、修正が加えられつつある (女工哀史史観は、生身で農業の辛さを知らない知識人の思い込みということもあるだろう)。台湾の製糖工場は、農業以外にほとんど産業がなかった当時の地元の人々の貴重な現金収入源にもなっていた可能性もある。案内してくださった先生に、ここの労働者は、強制労働で辛い目をしていたのか現金収入をありがたいと思いながら働いていたのかどちらだろうという質問をぶつけてみたが、両方どちらのケースもあっただろうという答えだった。植民地下の工場ですべての人々が強制労働で悲惨だったという見方も間違っているし、現金収入をありがたがった人たちがいたという理由で日本の植民地政策を正当化するという視点も正しくない。この製糖工場跡は、当時の事実を淡々と語ってくれる。

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