2019年3月28日木曜日

「今どきの高校生」はすごいー大阪府立大手前高校サイエンス探求参加記


 先日、大阪府立大手前高等学校の「サイエンス探求」の中間発表会にお伺いし、高校生の研究発表を聴かせていただいた。これは、大阪府からグローバルリーダーズハイスクールの指定を、また文部科学省からスーパーサイエンスハイスクールの指定を受けての教育プログラムのようだ。高校生が個人またはグループで特定のテーマで、ちょうど大学の卒業研究のような研究を行い、その成果発表にコメンテーターとして私が伺ったという次第である。私の担当はすべてポスター発表だったが、正直、こんなにハイレベルの発表だとは予想していなかった。そこらの大学の卒業研究よりもよほど優れているかもしれない。

 大学においても、卒業論文の位置づけは難しい。プロフェッショナルとしての研究なのか、あるいは、すでに知られていることがらを、あたかも知らなかったこととして先人の偉業をシミュレートするのか、判断に迷うことが多いだろう。高等学校でこのような研究を生徒にさせるなら、「発見学習」と位置づけての後者ではないかと思っていた。発見学習とは、知識を教え込むのではなく、それを学習者に発見させるという方法で、思考力が習得され、モチベーションも高いとされる。ところが大手前高等学校では、前者に相当する研究がかなり多かったのである。中には、ある向社会的な行動を起こさせるにはどうしたらよいかなど、社会心理学会で発表しても、誰も高校生の研究だとは気がつかないのではないかと思えるものもあった。

 私は、個人的意見として、卒業研究には学生を没頭させたいと思ってきたが、たとえば大学の1年生に「入門ゼミ」と称してこのような研究活動をさせるのには反対だった。まだ専門の知識が身につかない中で、研究と称して、中学生の夏休みの研究の域を出ないことをお遊びのようにさせても、無駄と考えていたからである。こういう活動が好きな大学教員の中には、知識習得を「詰め込み教育」として批判する人が多く、「何かを根拠を持って主張するためには、膨大な知識が必要」とする私の意見とは真逆なのである。

 しかし、大手前高等学校のサイエンス探求での経験は、私のこの意見に疑義を投げかけるものだった。今は、インターネット等で調べるのが容易になっているのか、高校生は、必要とあれば、さまざまな専門的な知識・情報を得ているようだった。それで私は、何人かの高校生に、さらに上を目指したコメントとして、「これまで分かってきたことに加えて、自分自身の研究がどのような新しい知見を加えたのかを、ほかの人に明確に伝わるようにして欲しい」とお伝えした。まあ、どんな研究にも言えることなので、安易といえば安易なコメントなのかもしれないが。

 私自身は、高校生のときにこのような活動ができれば、人生の経験として非常に有益だろうと思う。ただ、大学の入学試験においては、せっかくのこのような経験が反映されるだろうかと、心配にもなる。思考力が問われるような試験ならば、何らかの形でポジティヴな影響があるだろうとは思う。しかし、その実感はなかなかわいてこないだろうし、「そんなことをしてたら受験に損だよ」という一言で吹き飛んでしまったらどうしようかという懸念が生ずる。そうならないことを切に祈る次第である。

2019年3月14日木曜日

江戸幕府の森林の保護―日本人は自然を愛する国民?


 森林は、温暖化防止だけではなく、生物多様性を支えるためにも重要である。また、ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』においても、森林を守ることができるかどうかが文明を支えるために重要であることが示されている。さて、日本は人口が多いにもかかわらず森林の占める割合が高いのだが、この面積割合は、自然が豊かかどうかの指標の一つになる。

 日本は江戸時代の前期に大きな森林破壊危機に見舞われている。戦国時代が終わり、江戸時代になると人口も増えて町が発達し、材木の需要が増大したためである。とくに、1657年の明暦の大火によって江戸の半分が消失したあと、需要はピークに達した。その需要を満たすべく山林が伐採され、森林は大きな危機を迎えたのだが、その後、みごとに復活して現在に至っている。しかし、実はこれは、日本人が自然を愛する民族の証拠となるわけではないことを、私は、拙著『日本人は論理的に考えることが本当に苦手なのか』で述べている。

 森林破壊は、前回の記事でも述べた「共有地の悲劇」をどのように避けるかが重要な問題である。これを防ぐためには、共有するメンバーが、道徳的に自制するか、強力な法制によって取り締まるかどちらかである。江戸時代の森林再生の成功の第一の理由は、この共有地の悲劇を幕府主導によるトップダウン的な森林の管理統制によって防いだという点である。第二の理由は、森林伐採による被害が非常に目に見える形で現われたという点である。日本の山々は急峻で、山地の樹木を伐採することによって、土砂崩れや水害などの災害が起きやすい。伐採による災害が目に見えて明らかなので、幕府や藩も森林保護に本腰を入れ、また、人々へ取り締まりも説得力があっただろう。もし、被害が目に見えにくければ、このような政策はなかなか実を結ばない (1990年代の温暖化がその典型的な例だ)。第三の有利な点は、日本列島が比較的温暖で湿潤であり、また火山島でユーラシアから黄砂が飛来するという点である。火山は地下から植物の生育に有利な物質を地表にばら撒き、中国から飛来する黄砂は肥沃なのである。したがって、森林を伐採した後であっても、それを再生させるという点で非常に有利だったのである。

 私は、日本人が自然を愛する民族ということを否定しているわけではない。ただ、「日本人が森や木を始めとする自然を愛する民族だったので森林を守ることができた」という説明よりも、上記の説明のほうがはるかに説得力があるならば、わざわざ「国民性」のようなナショナリズムに結びつきやすい概念を持ち出す必要はないということが言いたいわけである。

 さらに、実は、幕府は森林伐採を統制すると同時に、森林からの利益に代わるものとして、アイヌとの交易を大幅に拡大させた。アイヌからはサケの燻製やシカの皮などが輸入され、米や綿などがアイヌにもたらされた。その結果、サケやシカは激減し、北海道の自然破壊となって自給自足のアイヌは急激に人口を減らしていった。これは、特定の自然を守るために、別の自然が損なわれるという典型的な例なのである。幕府には、北海道の自然破壊は目に見えていなかっただろう。あるいは、目に見えていたとしても、どうでも良いことだったのだろう。

2019年3月11日月曜日

緑地面積の増大―地球温暖化に対する朗報か?


 先日、ニューズウィークの記事に、過去20年間に地球の緑地面積が増大しているというものがあった。中国とインドで増えているようである。インドの場合は耕地としての緑地の増大で、中国の場合は植樹プログラム「緑の万里の長城」などの植樹活動による森林の増大のようだ。中国もインドも莫大な人口を抱えて経済成長途上であり、正直、この両国は地球の環境破壊の大きな不安要因なのではないかと思っていたので、ちょっとほっとするニュースである。

 国際規模で環境が守られるかどうかについては、共有地の悲劇を回避できるかどうかに大きく左右される。共有地の悲劇とは、ギャレット・ハーディンが提唱した用語で、牧草などの持続可能な資源を共有するそれぞれのメンバーが自分に最も利益がもたらされるように利用すると、共有資源が枯渇してしまうというものである。水産資源については、つねにこの悲劇を避けるような国際協定が結ばれていると思う。習近平独裁中国は、失礼ながら国際協定の遵守という点で常に懐疑的にならざるを得ないので、環境破壊の不安要素なのである。

 今回の中国とインドのこのケースは、共有地の悲劇を避けるというよりは、自然破壊がはっきりと目に見えて現れてきたためだろう。破壊が目に見えてくると、いくら独裁とはいえ、政府も危機感を抱くし、環境保護を国民にも説得しやすい。中国の場合は砂漠化、インドの場合は食糧不足が緑化への原動力のようだ。

 熱帯雨林などの自然な森林自体はやはり減少に歯止めがかからないようなので、手放しに喜ぶわけにもいかないようだ。ただ、私自身、地球温暖化は最も大きな環境リスク要因と考えているので、このニュースはちょっとほっとさせてくれる。とはいえ、更新世といわれるこの1万年は、45億年の地球の歴史の中でもっとも温暖で気候が安定した時代である。あと12万年もすれば確実に次の氷河期がやって来るだろうから、朗報とはいえごく些細なことなのかもしれない。

2019年3月2日土曜日

『知ってるつもり』―スローマンがこんな本を書くとは


 容貌には少々特徴があるとはいえ、また一流の認知科学者であるとはいえ、基本的には地味な基礎の研究者のスティーブン・スローマンが、まさか世界的なベストセラーを書くとは想像もしていなかった。邦訳書のタイトルは『知ってるつもりー無知の科学』である。彼は、2009年の日本心理学会の招待講演者の一人だったが、残念ながら会場には決して聴衆が多いとはいえなかった。今なら大盛況になるだろう。彼の基本的なスタンスは、人間の認知機構に、直感的で速い処理と熟慮的で遅い処理を仮定する二重過程論者である。私も二重過程論的なアプローチで研究を続けているが、スローマンをはじめとする先駆者の影響を大きく受けている。また、2015年の9月に彼の勤務先であるブラウン大学を訪問したが、そのさいに研究発表もさせていただいている。

 本書の内容は、認知科学をある程度知っている人から見れば、それほど目新しいものではない。しかし、フランク・カイルの「説明深度の錯覚」を、人々に効果的に訴えることができるように非常に巧みにまとめている。私を含めた読者の多くは、文明の利器に囲まれて、その機能にさして驚くこともせずに育った世代である。テレビがなぜ映るのか、蛍光灯はなぜ明るいのか、冷蔵庫はなぜ冷やすことができるのかという疑問は、私たちの祖父母の世代なら抱いたかもしれないが、ユーザーとしての私たちは、機械として機能さえすればよいという程度の認識で、なぜという疑問をほとんど発することなしに使用している。そしれ、いつの間にかそのメカニズムを知っているつもりになっているのが、説明深度の錯覚なのである。

 本書では触れられていなかったが、この説明深度の錯覚は、現在、二重過程理論の直感的システムにおける正解感 (feeling of correctness) という概念で扱われている。この正解感が高いと、熟慮的なシステムが作用しなくなるというわけだ。1980年代の素朴な二重過程理論ならば、直感的な出力も、熟慮的なシステムによって修正が可能であると考えられてきたが、残念ながら情報の爆発的増加に対しては、熟慮システムも万能ではない。

 これまで二重過程理論者があまり注意を払わなかったのが、社会的コミュニティに分散される情報あるいは知能である。この他者を使って考えるという方法は、説明深度の錯覚を超えるために重要だろう。あまりに多くの情報に囲まれて、私たちは、「このことならあの人に聞けばよい」とか「その問題は、あの本を読めばわかるはず」という状態にしておいて、必要な時にそこにアクセスすればよいわけである。この方法で、私たちはずいぶんと適応的に現代社会を生きている。

 ただし、これが集団浅慮に結びつく可能性もあることが指摘されている。周囲の人が特定の意見を共有した時に、他の人は理解した上でその意見に賛成しているだろうと、自分もそれに同調してしまうわけだが、その集団の人間全員がそのようなスタンスでいると、集団浅慮になってしまう。これは、政治などにおいてよく見られるようだが、スローマンは、それを防ぐために「直接民主主義より代議制民主主義を推進すべき」と、認知科学者にしては珍しく、政治制度への言及を行っている。

 地道な研究を行っている認知科学者・認知心理学者は多いが、自分たちが知っていることは、世間の人々も知っていると、いつの間にか錯覚していることが多い。学界で当然とされている知見も、人々には意外に知られていないのである。そういう意味で、スローマンのこの書は貴重なのだろう。