先日、大阪府立大手前高等学校の「サイエンス探求」の中間発表会にお伺いし、高校生の研究発表を聴かせていただいた。これは、大阪府からグローバルリーダーズハイスクールの指定を、また文部科学省からスーパーサイエンスハイスクールの指定を受けての教育プログラムのようだ。高校生が個人またはグループで特定のテーマで、ちょうど大学の卒業研究のような研究を行い、その成果発表にコメンテーターとして私が伺ったという次第である。私の担当はすべてポスター発表だったが、正直、こんなにハイレベルの発表だとは予想していなかった。そこらの大学の卒業研究よりもよほど優れているかもしれない。
大学においても、卒業論文の位置づけは難しい。プロフェッショナルとしての研究なのか、あるいは、すでに知られていることがらを、あたかも知らなかったこととして先人の偉業をシミュレートするのか、判断に迷うことが多いだろう。高等学校でこのような研究を生徒にさせるなら、「発見学習」と位置づけての後者ではないかと思っていた。発見学習とは、知識を教え込むのではなく、それを学習者に発見させるという方法で、思考力が習得され、モチベーションも高いとされる。ところが大手前高等学校では、前者に相当する研究がかなり多かったのである。中には、ある向社会的な行動を起こさせるにはどうしたらよいかなど、社会心理学会で発表しても、誰も高校生の研究だとは気がつかないのではないかと思えるものもあった。
私は、個人的意見として、卒業研究には学生を没頭させたいと思ってきたが、たとえば大学の1年生に「入門ゼミ」と称してこのような研究活動をさせるのには反対だった。まだ専門の知識が身につかない中で、研究と称して、中学生の夏休みの研究の域を出ないことをお遊びのようにさせても、無駄と考えていたからである。こういう活動が好きな大学教員の中には、知識習得を「詰め込み教育」として批判する人が多く、「何かを根拠を持って主張するためには、膨大な知識が必要」とする私の意見とは真逆なのである。
しかし、大手前高等学校のサイエンス探求での経験は、私のこの意見に疑義を投げかけるものだった。今は、インターネット等で調べるのが容易になっているのか、高校生は、必要とあれば、さまざまな専門的な知識・情報を得ているようだった。それで私は、何人かの高校生に、さらに上を目指したコメントとして、「これまで分かってきたことに加えて、自分自身の研究がどのような新しい知見を加えたのかを、ほかの人に明確に伝わるようにして欲しい」とお伝えした。まあ、どんな研究にも言えることなので、安易といえば安易なコメントなのかもしれないが。
私自身は、高校生のときにこのような活動ができれば、人生の経験として非常に有益だろうと思う。ただ、大学の入学試験においては、せっかくのこのような経験が反映されるだろうかと、心配にもなる。思考力が問われるような試験ならば、何らかの形でポジティヴな影響があるだろうとは思う。しかし、その実感はなかなかわいてこないだろうし、「そんなことをしてたら受験に損だよ」という一言で吹き飛んでしまったらどうしようかという懸念が生ずる。そうならないことを切に祈る次第である。