容貌には少々特徴があるとはいえ、また一流の認知科学者であるとはいえ、基本的には地味な基礎の研究者のスティーブン・スローマンが、まさか世界的なベストセラーを書くとは想像もしていなかった。邦訳書のタイトルは『知ってるつもりー無知の科学』である。彼は、2009年の日本心理学会の招待講演者の一人だったが、残念ながら会場には決して聴衆が多いとはいえなかった。今なら大盛況になるだろう。彼の基本的なスタンスは、人間の認知機構に、直感的で速い処理と熟慮的で遅い処理を仮定する二重過程論者である。私も二重過程論的なアプローチで研究を続けているが、スローマンをはじめとする先駆者の影響を大きく受けている。また、2015年の9月に彼の勤務先であるブラウン大学を訪問したが、そのさいに研究発表もさせていただいている。
本書の内容は、認知科学をある程度知っている人から見れば、それほど目新しいものではない。しかし、フランク・カイルの「説明深度の錯覚」を、人々に効果的に訴えることができるように非常に巧みにまとめている。私を含めた読者の多くは、文明の利器に囲まれて、その機能にさして驚くこともせずに育った世代である。テレビがなぜ映るのか、蛍光灯はなぜ明るいのか、冷蔵庫はなぜ冷やすことができるのかという疑問は、私たちの祖父母の世代なら抱いたかもしれないが、ユーザーとしての私たちは、機械として機能さえすればよいという程度の認識で、なぜという疑問をほとんど発することなしに使用している。そしれ、いつの間にかそのメカニズムを知っているつもりになっているのが、説明深度の錯覚なのである。
本書では触れられていなかったが、この説明深度の錯覚は、現在、二重過程理論の直感的システムにおける正解感 (feeling of correctness) という概念で扱われている。この正解感が高いと、熟慮的なシステムが作用しなくなるというわけだ。1980年代の素朴な二重過程理論ならば、直感的な出力も、熟慮的なシステムによって修正が可能であると考えられてきたが、残念ながら情報の爆発的増加に対しては、熟慮システムも万能ではない。
これまで二重過程理論者があまり注意を払わなかったのが、社会的コミュニティに分散される情報あるいは知能である。この他者を使って考えるという方法は、説明深度の錯覚を超えるために重要だろう。あまりに多くの情報に囲まれて、私たちは、「このことならあの人に聞けばよい」とか「その問題は、あの本を読めばわかるはず」という状態にしておいて、必要な時にそこにアクセスすればよいわけである。この方法で、私たちはずいぶんと適応的に現代社会を生きている。
ただし、これが集団浅慮に結びつく可能性もあることが指摘されている。周囲の人が特定の意見を共有した時に、他の人は理解した上でその意見に賛成しているだろうと、自分もそれに同調してしまうわけだが、その集団の人間全員がそのようなスタンスでいると、集団浅慮になってしまう。これは、政治などにおいてよく見られるようだが、スローマンは、それを防ぐために「直接民主主義より代議制民主主義を推進すべき」と、認知科学者にしては珍しく、政治制度への言及を行っている。
地道な研究を行っている認知科学者・認知心理学者は多いが、自分たちが知っていることは、世間の人々も知っていると、いつの間にか錯覚していることが多い。学界で当然とされている知見も、人々には意外に知られていないのである。そういう意味で、スローマンのこの書は貴重なのだろう。
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