2019年2月15日金曜日

心理学の論文における「仮説」って?

 学術論文を書くには労力が必要である。残念ながら、自分の中ではこのエネルギーの減少を感ずるが、それに反比例するように多くの査読が舞い込んでくる。査読論文や日本で出版された論文について気になる点は、ここ10年程の傾向なのか、やたら「仮説」が羅列されたものが多いのである。科学論文は、良きにつけ悪しきにつけカール・ポパー流の仮説演繹法が基本なので、仮説を明示することは悪くはないのだが、仮説演繹法の基準から外れたものが多いのである。

 最も多いのは、これまで行われた実験事実から、さして確認するほどのことでもないような「仮説」を提示するタイプである。仮説は、それらの実験事実を説明する理論から演繹的に導かれるはずなのだが、その理論はあまり明示されないまま、過去の研究でこういう事実が発見されているので、本研究でもそうなるだろうという「仮説」になっているのである。私はこれを密かに「仮説帰納法」と呼んでため息をついている。この論法が学術的意義を持つとすれば、先行研究における「事実」が頑健ではない場合である。そうでなければ、このような「仮説」はほぼ無意味である。

 次に多いのは、やたら仮説が多い論文である。この傾向も、結局は理論が何かわかっていないことに由来する現象ではないかと思うが、仮説が4種あるいは5種もあると、読むほうはうんざりしてしまう。仮に、3種の仮説が提示されているとしよう。すると、私の頭の中では、それぞれの仮説が支持されたか否かで、23乗、計8通りの可能性を考える。そして、その8通りのうち、どの場合が仮説を導いた理論を支持するのだろうかを想像する。仮説が3種でもかなり認知容量を超える作業なのだが、4種あるいは5種も明示する書き手は、読み手のこういう状況を想像しているのだろうか。科学論文は、読み手に優しいことが大原則だが、この意味をもう一度考えてほしいものである。

 仮説が多い論文に見られる傾向なのだが、仮説で予測していることがらがやたら細かいというものも散見される。たとえば、

仮説1. Xを行うと、測度Aの得点は増加する。

仮説2. Xを行うと、測度Bの得点は減少する。

というものである。私などは、「Xを行うと測度ABの差が増大する」くらいが良いのではないかと思うのだが、すべてを予測することを金科玉条のごとく守っているとこういう硬直したものになる。心理学の測度には相対的なものが多いのだが、ABがそうだとするとこのような予測を行うことにそもそも無理がある。それで、たとえば仮説1のみ支持されたような場合に、よく見かけるのが「理論は部分的に支持された」とかいう訳のわからない結論である。「部分的に支持って?」とため息が漏れてしまう。理論と説明のための原理が正しいかどうかは確率的なものなので、どの程度の確率でということなら理解できるが、「部分的に」と書かれると読み手はどう解釈してよいのか困惑してしまう。ポパー流の仮説演繹法にもいろいろと批判はあるので、必ずしもポパリアンたれとは言わない。しかし、査読者・審査者あるいは将来の読み手に理解しやすいものを書くということだけは守ってほしい。

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