2018年12月27日木曜日

国語から文学が消える? ―文学はよき社会への燃料ではないか


 入試改革や教科としての国語から、文学が追いやられそうな勢いである。確かに、国語の教科書に小説の一部だけが掲載されるのは不自然だし、小説は解釈が多様で、試験にしにくいというのはわかる。しかし、小説、あるいは文学の価値はもっと社会で認識されてもいいのではないだろうか。

 文学には、戦争や暴力・残虐行為を抑制する力がある。それが顕著になるのは、17世紀後半からのヨーロッパにおける地域紛争的な戦争の減少、魔女狩りの終焉を含む異教徒への弾圧の減少、罪人あるいは被疑者に対する厳罰・拷問の減少である。また、それまでは死刑は公開で行われていて見物人も多く、人々の一種の娯楽という要素も含まれていた。しかし、そのころから処刑シーンは人道的嫌悪をもたらすものに変化した。

 もちろん、これらの重要な要因は、絶対王政的な権威がリヴァイアサンとして機能し、地域紛争が減少したということかもしれない。しかし、16世紀以降、活版印刷の技術が、聖書から徐々に大衆小説と呼ばれる武勇談や滑稽譚などの印刷に適用されて、書籍が普及し始めている。そのような背景から、17世紀にはウィリアム・シェイクスピアが現れ、またジャン・ド・ラ・フォンテーヌがイソップ寓話を基にした寓話詩を作った。小説は18世紀から本格化し、英国では、ダニエル・デフォーが『ロビンソン・クルーソー』を書き、ジョナサン・スウィフトは『ガリヴァー旅行記』を著した。また、ちょっと遅れて、ドイツでは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、『若きウェルテルの悩み』を著している。

 小説を読んで楽しむためにはその登場人物の理解が必要で、それによって共感も生じやすい。この行為は他者の行動を理解するときに、心の理論あるいはマインドリーディングを用いることとほぼ同義である。他者への共感がより促進されると、たとえば、罪人が拷問を受けるときの苦痛や処刑されるときの恐怖を実感できるようになる。また、自分が異教徒として迫害される側に立つこともできるようになる。そうなると、いくら罪人や異教徒に対する恐怖や嫌悪が強くても、拷問・処刑・迫害はかわいそうであるという感情が芽生えることになる。17世紀以前の人々のマインドリーディングが不完全であったというわけではないが、小説が人々に読まれ始めるにしたがって、マインドリーディングが適用される範囲が人間の実際の行動から架空の人物の行動へと広がり、それと同時に、それまでは敵だった異教徒の精神状態の理解も促進されるようになったと考えるのが最も妥当だろう。

 心の理論やマインドリーディングは、共感による強い感情と結びついている。そして、この出力は、いわゆる「頭で考えた」結果の出力よりも強力である。したがって、巨大なエネルギーとなって社会を変革していく力を秘めているといえる。歴史的に、人道主義に向けての運動への影響として非常に大きかったのは、ストウ夫人による『アンクル・トムの小屋』であろう。黒人奴隷としての悲惨な状況を描いたこの小説は、アメリカが奴隷解放問題で南北分裂の危機を抱えていた当時、奴隷解放への世論の形成に非常に大きな役割を果たしている。

 小説や文学が育たないこところではよき社会は生まれない。出力エネルギーが強いということは、もちろん諸刃の剣という危うさもある。しかし、人々のモラルの向上や残虐な行為の減少のために、欠かすことができない社会の燃料という非常に重要な側面がある。教科から小説・文学を追いやろうとしている為政者にはこのことが理解されているのだろうか。

2018年12月17日月曜日

NHK大河ドラマ「西郷どん」―個人的総括


 「西郷どん」が終わった。始まった当初は、感情の押し付けではないかなどの違和感もあった。しかし、制作側の「家族の視点から描く」という意図は十分に伝わったと思うし、大成功だったのではないだろうか。確かに視聴率という点では振るわなかったかもしれないが、大河の中では、概して幕末モノは視聴率が低い。背景が複雑すぎたり、大河ファンが期待する武者姿の合戦がなかったりと、いろいろとハンディがあるのだろう。

 西田敏行の語りが実は息子の菊次郎だったというのは、なかなかうまい演出だが、確かに林真理子の原作も菊次郎が父を語るという形式になっているので、気の利いたいたずらだと思う。家族の視点は、黒木華の糸、二階堂ふみの愛加那が、全く異なる家族形態の中で、異なる視線から西郷を眺めていたという脚本・演出は興味深く楽しませてもらった。ただ、少女時代の糸と西郷の妻になってからの糸の連続性にちょっと違和感もあった。「芯の強さ」や「納得するまでは引かない」という印象は共通していたかもしれないが、あのお転婆がすっかり影を潜めたのはちょっと残念だった。

 村田新八は1990年の「翔ぶが如く」で益岡徹が演じて以来、私のお気に入りの人物だが、堀井新太の新八はちょっと物足りなかった。このあたりは、脚本や演出との兼ね合いもあろうが、益岡さんが醸し出していた剽軽さに欠けるかなという印象である。また、洋行経験で世界を知ったという新八は、西郷軍に加わるかどうかでものすごく悩んだはずなのだが、それはドラマではあまり描かれていなかった。しかし、最期の城山で、フランスで習熟したアコーディオンを弾き、フロックコートを脱いだ彼の粋は表現できていたと思う。「ラ・マルセイエーズ」のシーンはおそらく忘れられないものになる。

 司馬遼太郎の小説のほうの「翔ぶが如く」では、川路利良がかなり大きな位置を占めるが、1990年の大河では、演じた塩野谷正幸の印象は薄い(塩野谷さんは、今回は糸の父親役だった)。しかし今回は、川路を演ずる泉澤祐希がもう少し存在感を出してくれていた。ただ、どのような意志で大久保側につき、西郷軍に参加しなかったのかとか、ポリスの役目とか、もう少し語らせてくれたら良かったのにとも思う。

 始まった当初は、私の中の最悪の大河である「江」のようなとんでもないものになるのではと恐れたが、十二分に見応えたがあった。「男が活躍して陰で女が支える」に陥りがちな西郷と大久保の物語を、地に足がついた生活者の視点で描いてくれていたと思う。

2018年12月6日木曜日

なぜこの程度のコメントで「納得」した気分になるのかー勝谷誠彦氏のあるコメントを題材として


 先日、コラムニストの勝谷誠彦氏が亡くなられた。勝谷氏には申し訳ないが、2011年の認知心理学会のシンポジウム「21世紀市民のための思考研究の理論と実践」で登壇させていただいたときに、彼のある事件へのコメントを題材に、「なぜこの程度のコメントで人々が納得した気分になれるのか」と、かなり批判的な立場で議論した記憶がある。さて、以下の3つのコメントで、勝谷氏による本物はどれだろうか? 残りの2つは私が作成したものである。

(1) 愛知県の東名高速道路で起きた高速バス乗っ取り事件で、監禁と銃刀法違反容疑で逮捕された中学2年の少年について

「誰でも簡単にナイフが持てる時代で、『周囲の注意を引き付けたい』という達成感を得ることだけが目的になっている。どうにかその達成感を表したいから、バスを乗っ取るという安易な方法をとる。乗っ取り・監禁までしてしまうのは自己愛の暴走。自分を『世界に一人だけの花』と思いこむ人間が増えて、そこに事件を起こすことがその証明だと勘違いしてしまう。豊かなようで、精神の貧困な時代の象徴だ。」

(2) 学校に無理難題をおしつけるモンスターペアレントの問題について

「誰でも簡単に教師に文句が言える時代で、『学校・教師に勝った』という達成感を得ることだけが目的になっている。どうにかその達成感を表したいから、学校にクレームをつけるという安易な方法をとる。学校の教育方針にまで口をはさむのは自己愛の暴走。自分を『世界に1つだけの花』と思いこむ人間が増えて、学校を屈服させることに自分という存在が残ったと勘違いしてしまう。豊かなようで、精神の貧困な時代の象徴だ。」

(3) イタリアの世界遺産であるフィレンツェ市のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂において日本人の落書きがあったことについて

「誰でも簡単に海外に行ける時代で、『そこに行った』という達成感を得ることだけが目的になっている。どうにかその達成感を表したいから、落書きという安易な方法をとる。実名まで書いてしまうのは自己愛の暴走。自分を『世界に1つだけの花』と思いこむ人間が増えて、そこに自分という存在が残ったと勘違いしてしまう。豊かなようで、精神の貧困な時代の象徴だ。」

 正解は、(3)で、産経新聞の2008年の629日付のコメントである。認知心理学会では私が作成した偽の例がすでに知られていたようで、比較的正解者が多かったが、これ以外の場所で話したときは、正解はほぼチャンスレベルであった。さらに、(1)でも(2)でも納得できるようなコメントで、AIによる事件コメント生成プログラムが簡単に作成できそうだという意見もいただいた。

 勝谷氏や産経新聞には申し訳ないが、シンポジウムで提起した問題は、なぜこの程度のコメントで人々があたかも「納得した」かのような錯覚を抱くのかということである。私がシンポジウムで主張した結論は、素朴心理学的な因果説明と、安直なビッグワードの使用である。素朴心理学とは、科学的に検証されているわけではないが、人々が直感的に信じている因果連鎖から構成される。ここでいえば、「自己愛傾向が高い人は、目立つところに自分の名前を書く」や、「豊かになれば精神が貧困になる」という因果関係である。検証されたわけでもないのに、なぜこの程度のことを信ずるのかという問題はまだ明確ではないが、因果構造のシンプルさが理解を容易して、納得感をもたらすのだろう。

 もう一つの問題は、ビッグワードである。ビッグワードとは、抽象的でさまざまに解釈可能な記述用語だが、ここでは「自己愛」や「精神の貧困」が相当する。実は、「自己愛」は心理学ではかなり厳密な定義が試みられているが、日常語として使用されればビッグワードになる。どうにもならないのは「精神の貧困」だろう。精神の貧困とは何なのか? 明確ではないままに人々を納得させる怖い用語である。