2018年11月1日木曜日

心理学からなぜ政治や戦争の話題へ? ―適応論とビッグ・ヒストリー

 ブログを始めて1年になる。当初はそういうつもりはなかったが、振り返ると、政治や戦争関係の記事が予想外に多かったように思う。私の昔の推論研究をご存知ならば、あのYamaがなぜこんな領域の記事を書くのかと驚いておられる方々も多いかもしれない。

 推論研究は、1980年代の「人間はなぜ誤るのか」という視点から、1990年代には「人間の誤りはどういう意味で適応的なのか」という問いかけに変化した。野生環境で進化した脳にとって人工的に作られたルールや論理学は苦手だが、現代人の誤りも、野生環境では適応的だったのではないかというわけである。今世紀に入ると、文化的な視点も取り入れられ、人間は文化的環境に適応できているのかどうかという議論にも発展している。文化というと、芸術などを連想させるかもしれないが、このブログでは、それだけではなく、人間の習慣や社会のシステムなど、社会性哺乳類としての人間が集団を作っていくうえでの何らかの仕組を表す用語として使用している。適応的視点からは、文化とは、人間が集団で生活する上での何らかの適応課題(それを解決すると、生存や繁殖に有利になるような課題)を解決するために作られたものである。歴史上、民主的に創られる場合もあれば、権力者が自分に都合がよいように作る場合もあっただろう。また、ちょっとした人々の習慣が伝播していく場合もある。そして、いったん文化が作られると、目標である適応課題の解決はもたらしてくれるかもしれないが、もう一方でその新しい文化への適応が求められるようになる。人々に効率的に共有すべき知識が伝えられるようにということで「学校」という文化が創られたが、今度はその「学校」という文化に適応を求められるようなものである(この不適応は、教育心理学の大きなテーマの一つである)

 現在、世界にはさまざまな文化が人々によって共有されている。それによって、残念ながら、豊かな国もあれば貧しい国もある。産業が発展している国もあれば途上の国もある。政治的に独裁の国もあれば民主的な国もある。平和な国もあれば内戦やテロが終息しない国もある。これらのアンバランスな発展あるいは多様性は、どのようにして起きたのであろうか。この問題に、現時点で最も適切な解答を与えてくれるのは、いわゆるビッグ・ヒストリーだろう。残念ながら、日本人による著作はあまりないが、ジャレド・ダイアモンドが『銃・病原菌・鉄』を著して以来、次々に名著が出版されている。最近では、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』がインパクトを与えている。さらに、スティーヴン・ピンカーの『暴力の人類史』は、人類がどのようにして殺人・暴力や戦争・ジェノサイドを減少させてきたのかを議論している。

 このブログの政治や戦争についての記事の多くはこれらの書籍から影響を受けたものである。最近のビッグ・ヒストリーは、過去を振り返るだけではなく、未来をどのように生きていくのかということも真剣に議論し始めている。しかし、日本の政治家やそれに類する人々による国家あるいは人類の将来についての議論はとてもこの水準に達していない。素人ながら、残念に思う。

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