今年のNHK大河ドラマである「西郷どん」について、本ブログではこれまで「翔ぶが如く」と比較しての批判的なコメントを述べているが、家族の視点からの描き方は見事である。この点については、「翔ぶが如く」を超えていると思う。それが顕著に見られたのが、10月14日放映の、渡部豪太演ずる吉二郎の戦死である。
この時期の薩摩藩下級武士の西郷家は、長男の吉之助が異例の出世と名声を得た一方で、家を守っている次男の吉二郎が生活苦の中で百姓をしているという非常のバランスの悪い状態になっている。この点を吉之助に抗議した長妹の琴のセリフも良かったが、自分も戦争に行きたくてたまらなくなった吉二郎の精神状態を、渡部豪太が、たいへん見事に表現していたと思う。吉之助とともに三男の慎吾や末弟の小兵衛が戊辰戦争にすでに従軍しており、生死の境をさまよった慎吾は、「やめておけ」と忠告する。
しかし、これは吉二郎にとってはとても酷な状況だろう。この忠告に従わず、結局は北越戦争で戦死した吉二郎にとって、従軍は愚かな選択だったということは簡単かもしれない。しかし、ドラマは、あるいは吉二郎を演じた渡部豪太は、それ以上のメッセージを私たちに与えてくれたと思う。彼にとって、単調で華やかさに欠ける百姓仕事はたいくつで仕方がなかっただろう。また、当時の薩摩では、勇敢であることが最も尊いとされた価値観が共有されている。そうした中で、兄弟の中で一人だけ家で百姓仕事というのは耐えられなかっただろう。
人類学者のDavid Anthonyは、男性の地位や役割が主に戦争で手柄をたてたかどうかできまるような社会では、若い男性は手柄をたてる機会を求めて紛争を好む傾向があると述べている。これはグローリー・シーキングと呼ばれ、幕末の薩摩だけではなく、人類に普遍的に見られる傾向である。現代でも、イスラム国の戦士になろうとする若者に共通に見られるのは、この傾向である。彼らは、希望が持てない退屈さの中から戦士になっていくわけである。
10月14日のドラマは、グローリー・シーキングに踊らされた吉二郎の悲劇を、グローリー・シーキングが従軍という形で若い男性の中に生まれてしまう時代背景への批判としても描いていたと思う。幕末あるいは新政府ができたこの時代は、古い体制を改革するのにこの傾向はどうにも避けられなかったことなのだろうか。永遠の宿題になりそうだ。
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