2018年9月28日金曜日

「正解がない」とは? ―日本心理学会のあるシンポジウムでの雑感

 925日より、仙台で開催されている日本心理学会に参加していた。今回は私自身の発表はないので、全くの物見遊山なのだが、刺激的な発表がたくさんあった。その中の、ある公募シンポジウムにおいて、引っかかったのが「正解がない」という文言である。

 この文言は、実際の教育においてかなり安易に用いられることがある。たとえば、大学教員の中には、新入生に「高等学校までは正解を目指す教育がなされたかもしれませんが、大学では正解がない問題に取り組まないといけません」というメッセージを発する人がいる。受け手の新入生は、大学とはそんなところかなと何となく理解するかもしれないが、かなりの高確率で、正解がないのならば大学というところはあまり勉強しなくてよいという曲解を与える可能性もある。

 この「正解がない」は、さまざまに解釈可能だが、二種類に大別することができ、一つは、「正解が存在するが、現実にはそれを知ることは困難であるもの」で、もう一つは「本当に正解が存在しないもの」である。前者は、いわゆる計算困難性(computational intractability)の問題で、正解にたどり着くまでにものすごい数の可能性を検討しなければならないようなとき、それを知るのはほぼ不可能になる。たとえば、「囲碁で誰にでも勝つ方法」はおそらく存在するかもしれないが、囲碁の可能な局面数は10360と言われていて、人間はもちろん現在のコンピュータでは対処できない。「自分より弱い相手なら勝てる」というように可能性をかなり限定することによって局所解が得られることがあるが、これは限定の仕方によって異なってくる。そうすると、あたかも複数の正解があるように見え、「本当の正解がない」かのように見えてしまう。おそらく大学の教員が頭に想定している「正解がない」はこちらに分類されると思うのだが、正確には「正解がわからない」というべきだろう。「あまり勉強しなくてよい」どころか、これを知るためには、おそろしい努力を重ねなければならない。

 もう一つの場合は、正解を定める規範間に対立がある場合である。たとえば、所得を、個々人の成果に比例させるべきなのか、完全に均等にするべきなのかという問題は、厳密には永遠に正解が求められないものである。この「成果」をどのように測定するかという問題も、計算困難性を伴うが、仮に100パーセント正しい測定法があったとしても、完全比例と完全均等の間のどのあたりをとるかは、永遠に決定することができないだろう。分かっているのは、完全比例にすると生きていけない人が出てくるだろうし、完全均等にすると有能な人たちのモチベーションが削がれ、怠惰な人は益々怠惰になるだろうということである。とくに前者の場合、ハンディキャップのある人に対して苛烈になる。「生産性」という物議を醸しだした基準は取り扱いが難しい。この規範対立の問題も、ひょっとしたら何が最適規範かという問題を解決すれば、正解がわかるのかもしれない。しかし、規範についての問題は、あくまで形而上学的な議論であって、実証は不可能である。

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