仙台での学会を終えて、9月28日に東京で開催された、人文社会科学系学協会男女共同参画推進連絡会(GEAHSS)の総会に出席してきた。この会は、日本学術会議との連携で準備されて来たようだが、各学会・協会における女性の比率を上げていくことを目標として活動している。私は、女性も、自分が価値を感ずるやりたいことを、男性と同じくらいもっと自由にできるようにという主旨には賛成だが、総会において、委員長の井野瀬先生より、私が今まで気がついていなかった学術的発展のための興味深い提言があった。それは、ジェンダー平等によって学術領域によって多様性が生じ、それによって学術的発展が期待できないかというものである。
文学の世界ではこれは明白だろう。たとえば、源氏物語をどう解釈するかという問題には、男性と女性の両方からの視点があれば、より学術的発展が期待できる。しかし、この男女の共同参画の効果は、もう少し広い枠組みで捉えるとすれば、異文化の出会いによるものと考えることができるかもしれない。歴史的にも、異文化交流から異種のものを取り入れることによって発展した例は枚挙にいとまがない。フランスの印象派に北斎などの浮世絵が影響を与えたことなどが代表的なものだろう。
それでは、研究者の男女共同参画はどういう意味で異文化交流といえるのだろうか。日本の研究者は、男女を問わず、少なくとも小中学校の頃より勉強に対してほぼ同じような価値観を受け付けられているようにも思える。しかし、それでも、結婚に対して、あるいは子どもをもつかどうか、子育てを誰がどのように行うのかなどの文化の違いを経験している可能性は高い。生得的かどうかはわからないが、興味の方向性にもジェンダー差があるだろう。また、私たちの世代の女性研究者には、大学院への進学を反対された方も少なくはない。そうすると、やはり男女共同参画は異文化的状況と言えるかもしれない。
心理学の実験で、共同で何かを行うような課題において、文化的に異質な人が加わると課題成績が良くなるということは、ある程度は実証されている。では男女の共同の場合はどうだろうか。おそらく成績向上が観察されるのかもしれないが、この向上は、女性が加わることによる、男性の女性に対するディスプレイの影響の可能性もある。したがって、純然たる異文化多様性の効果を見たいときは、ディスプレイの効果は割り引かなければならないかもしれない。男というのは、女性がいるとそこで良い恰好をしたがるどうしようもない生き物なのである。
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