すでに3か月経つが、私の前任校の先生方との共著である『健康的存在(Healthy Being)』がナカニシヤから出版された。この本は、もう10年以上前になるが、前任校に1年だけ客員准教授として滞在された筆頭編者のライ先生の発案によるもので、さまざまな領域の教員が「健康的存在」としての人間を語るものとして企画された。私も、編者の一人であると同時に、中の一章を担当している。本書は、多領域にまたがった、非常に学際的なものである。学際性の重要性は、よく叫ばれるのだが、では学際性とはどういうことなのか、これまであまり真剣に議論されていないように思う。
本書では、最終章で、相補的な学際性と普遍性を求める学際性という分類を行っている。相補的学際性とは、何らかの問題を、それぞれが得意とするスキルを持ち寄って解決するというアプローチである。この端的な例が考古学における放射性炭素法であろう。この技術は、出土物の年代を推定するために用いられている。しかし、測定法自体は考古学とは何の関係もなく、放射性炭素法がなぜある程度妥当な方法であるのかを保証するメカニズムは、歴史学の事実解明や法則研究とはほとんど関係がない。放射性炭素法はすでに推定された歴史的事実からこの妥当性や信頼性が追及され、考古学はこの手法によって発展し続けている。
本書は、さまざまな領域の研究者たちがそれぞれの領域で、「健康」という概念を多角的に理解するために、執筆されたものである。哲学的な論考、人間に使用されるという事実に重点を置いた言語学、自尊心の心理学、環境科学や細胞レベルの生命科学からのアプローチが試みられている。その意味で、始まりは相補的である。それぞれの分野が得意とする切り口で「健康」を語っているからである。
しかし、このような試みにおいて、同時により普遍的な意味で健康が理解され、さらには「人間の幸福とは何か」という遠大な問題にも言及ができたのではないかと思う。言い換えれば、人間が人為的に環境をつくり、かつその環境に適応するということはどういうことなのかということが議論の背景にあるからである。
そもそも、学問の領域というのはどのように決められるのかという基準もない中で、学際性といっても余計混乱するだけかもしれない。学問領域というと、扱う対象によって決定されているように思われるが、むしろその対象あるいは現象を、どのレベルで説明するかで決定される。概して説明は、その現象よりも一段階還元したレベルが好まれ、たとえば、生物学は、生物的な現象を、生物の身体内の化学原理で説明というのが一般的なスタイルだろう。化学反応などの現象は、物理学の量子力学による説明が一般的である。この還元という説明スタイルは非常に魅力があるが、ではどこまで還元すればよいのかという点において明確な基準があるわけではない。還元しすぎると、元の対象・現象が見えなくなってしまう。普遍性を求める学際性は、このような、還元による説明とは何なのかをそれぞれの領域で行き来しながら議論する中で生まれてくるのではないかと思う。
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