ただし、当時の住民の多くがトルコ人であったわけではない。オスマントルコの版図に組み入れられたとき、イスラム教徒に改宗すれば、かなりの税の優遇があり、それで当時キリスト教の異端とされたボゴミル教徒の人々が改宗したようである。彼らは当初からこの地に住んでいたので、オスマントルコが現在の領土に縮小した後も、ボスニアヘルツェコビナに住み続けている。それで、この国では約半数がイスラム教徒というわけである。彼らは、ボシュニヤク人と呼ばれている。
これが、バルカン半島がヨーロッパの火薬庫と呼ばれた一因になっている。ユーゴスラビアが崩壊して、ボスニアヘルツェコビナが独立をしようとしたとき、国内にいたセルビア人勢力やそれを後押しするとセルビアとの紛争が続いた。このセルビア人勢力は、ボスニアフェルツェコビナ国内で、スルプスカ共和国として自立しようとしていた。モスタルには、紛争の痕跡がいたるところに残されており、2番目の写真のように、人々が現在も普通に暮らしているアパートに弾痕が残っている。
その紛争の最大の悲劇が、1995年に起きたスレブレニツァにおけるジェノサイドである。各民族が自分たちの土地から異民族を排除しようとする民族浄化の機運の中で、ラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍によって推計7000人のボシュニャク人が殺害された。第二次世界大戦以降の最も被害者が多いジェノサイドの1つである。この問題は現在も尾を引いており、1か月ほど前の新聞の国際欄の小さな記事だが、2018年8月14日スルプスカ共和国議会が、スレブレニツァでセルビア人武装勢力がボスニア人ら約7000人を殺害した事件について、「犠牲者数が誇張されている」として事件を認めた政府報告書を無効とする決議を採択したと記載されていた。
なお、ドブロヴニクはクロアチアの飛び地である。モスタルに最短で行くには、3回国境を越えなければならない。1667年に大地震に見舞われて国力が衰退したラグーサ共和国がライバルであったヴェネチア共和国の圧迫を撥ね返すためにオスマントルコの力を借りたのだが、その際にトルコ側に割譲した地が現在のボスニアヘルツェコビナになっている。ドブロヴニク側からクロアチア本土側に伸びた細長い半島と本土を結ぶ橋が計画中らしいが、その橋が完成すれば国境を越えなくてもよくなるようだ。
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