卒業論文の意義についての、3回目の記事である。前回、卒業論文は、とくに研究者をめざすわけではない学生にとっても、市民リテラシーを育成する上で非常に効果があるということを主張したが、これは指導者側として学生に伝えるのは、実はかなりキツイのである。その理由は、このメッセージの意味するところは、「卒業論文は企業等であまり役に立ったり評価されたりしないかもしれない、その点で、あなた自身にはあまり益がないかもしれない。しかし、社会あるいは人類を向上させるのに役立つ。だからしっかりがんばってください」となるからである。
そういう意味で、文学部における卒業論文は、特殊技能を教育する大学における、その専門のプロフェッショナルを目指さない学生への教育と似たものがあるかもしれない。たとえば、音大でピアノを専攻していても、プロフェッショナルのピアニストにはならない学生の卒業演奏会、あるいは、陸上の長距離界で活躍しても、その後は陸上の長距離に進まない学生の箱根駅伝のようなものかもしれない。卒業演奏会や箱根駅伝は華々しいが、卒業論文は地味なだけに、どうしても報われない感は強い。また、「ピアノが弾ける」や「長距離走が得意」というのは、人に誇れる特技として、人生の折々の機会に披露することができるが、よい卒論を書きましたというのは、なかなか一般社会でも評価されにくい。
それでいて、市民リテラシーのために重要だから卒論をがんばりなさいというのは、「あなたたちはスタープレーヤーではないが、スターを評価・理解できるよき市民となるのです」ということとほとんど等価になってしまう。実際に、市民リテラシーは重要である。たとえば、産業革命では、1764年にジェニー紡績機を発明したジェームズ・ハーグリーブス、1771年に水力紡績機を発明したリチャード・アークライトなど、スタープレーヤーがいる。しかし、このような科学的イノベーションが一部の天才によって引き起こされたという考え方は、おおむね却下されている。科学的イノベーションとそれによる工業製品の増産は、まず科学的イノベーションを生み出す教育環境があり、そのイノベーションを理解する人々や、そのイノベーションに投資をする人々がいて、さらにそのイノベーションのための科学的発見への動機づけが高いという好循環がなければならない。一方、そういう周囲の理解を得られなかった平賀源内の発明は、革命を起こさなかった。要するに、産業革命を引き起こした最も大きな力は、市民リテラシーではないかと考えられるわけである。
現代は、情報革命に代表されるイノベーションの連続である。イノベーションを引き起こし、それを社会システムに組み入れて良き方向に導くのは、少数の天才ではなく、市民リテラシーを習得したよき市民なのである。そしてそれを、卒業論文を書くような経験が支えるのである。
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