研究不正がまた起きてしまった。iPS細胞の研究で、京都大学の助教による捏造と改ざんである。小保方晴子氏の事件で、研究者には、不正が良くないことが倫理的にも理解され、不正を行うと社会的にも制裁を受けるということが肌で感じられたと思えるのだが、同じような事件が起きて非常に残念に思う。
この事件について、教育評論家の尾木直樹氏がコメントを行っているが、研究不正者本人を非難するというよりも、研究現場の現状について問題点の指摘というニュアンスが強い。曰く、ポストに任期つきが多いこと、研究費の獲得がたいへんであることなどなど。しかし、前回の記事で書いた大阪大学の入試ミスについて、同氏がツイッターで強烈な非難を行っていることと比較すると、ものすごい違和感を抱いてしまう。1970年代や80年代に、非行や犯罪にはしる青少年が受験競争の被害者のごとく語られた時期があるが、今となっては的外れと思われるそのような論評を彷彿させる。
そもそも入学試験のミスは、意図的なわけではなく、あくまでヒューマンエラーである。それに対して、研究不正は確信犯なのだ。また、被害を比較すれば、入学試験のミスについては何人かの不運な受験生で済んでいる。もちろん犠牲となった受験生には同情するが、前回の記事でも述べたように、「人生が狂う」ほどのことはない。しかし、今回のiPS細胞研究不正は、使われた研究費だけではなく、その成果を信じて後続研究を始めようとした研究者、その成果を医学的治療に適用した研究者たちに、大混乱を起こしている可能性がある。また、その大混乱によって、研究の進展が一時的に停滞してしまえば、たとえば10年後に研究の進歩によって命が助かっていたはずの多くの人たちが、治療の完成が間に合わなかったとして死ななければならないということもありうるわけである。
入学試験ミスの被害者は目に見える。しかし、研究不正による被害者は想像しにくいし、どのくらいの数になるかは確率の問題である。それで、「わかりやすい」という理由で、非難の舌鋒が前者に向けられやすいとすれば、「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計」という恐ろしい言葉を想起させる。これは、ソビエト連邦の独裁者であるヨシフ・スターリンの言葉とされているが、実際は、「西部戦線異状なし」で知られている作家のエーリヒ・マリア・レマルク、あるいはホロコーストにかかわったとされてイスラエルで処刑されたアドルフ・アイヒマンの言葉ともいわれている。メディアで取り上げられたりすると、どうしても悲劇的な「一人の死」になりやすい。それで人々に何かを訴えるのも大切かもしれないが、それによって「百万人の死」が覆い隠されてしまったりすると恐ろしい。