2017年12月9日土曜日

死刑囚の臓器移植と功利主義―再度二種類の道徳的判断から考えてみる


 前回の記事が、功利主義とは5人を助けるために1人の犠牲を厭わないというもので、それが直観に妨害される例が、太った男を歩道橋から突き落とす場合だという趣旨とも読み取れるので、もう少し解説を加えたい。私は、功利主義の原則的賛同者だが、助かる人数のみが功利主義の指標というわけではない。

 功利主義への反例としてあげられるのが、5名への臓器移植である。彼らは、肺、心臓、肝臓などそれぞれ異なる臓器移植が必要なのだが、彼らの命を助けるために、健康な1名を脳死状態にして5名に移植しても良いだろうか。多くの人は、これをおぞましいと感ずるだろう。したがって、これを良い選択だとする功利主義はとんでもない思想であると判断されるかもしれない。

 しかし、功利主義では、犠牲者の人数だけが問題であるわけではない。犠牲になる1名の人間の不公平感は考慮するし、そしてこれが社会で許容されるならば、この社会自体における公正が損なわれているという意味で、弾劾できるのも功利主義なのである。さらに、もし健康な臓器提供者がくじか何かで選ばれるとなると、その恐怖が社会全体に行きわたることになるので、やはり「最大多数の最大幸福」を冒してしまうことになる。

 それでは、死刑囚を犠牲にするのは許されるだろうか。どうせ殺すのならば、臓器の有効利用は合理的かもしれない。しかし、それでも多くの人は何らかのおぞましさを感ずるのではないだろうか。私も同様である。くじで健康な犠牲者を選ぶよりはましかもしれないが、やはり抵抗感がある。この抵抗感は前回の記事における直観的なもの(おそらく扁桃核と島皮質が関係する嫌悪感に直結する)で、功利主義と反するだろうか。確かに直観的かもしれないが、必ずしも反するわけではない。そもそも功利主義は、現代の文明社会における死刑制度そのものに反対であろう。

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