2017年12月7日木曜日

遺骸の金歯の抜き取り―二種類の道徳的判断から考えてみる

 先日、ネットの記事に、「祖父の葬儀での出来事です。火葬された骨を骨壺に詰めるとき、叔父が骨に混じっていた金歯を指して、『これ質屋に売るからもらっていい?』と半笑いで言うんですよ」という記述があり、ほとんどの人がこの叔父の非常識さに嫌悪を示したということが記されていた。私も、同じ印象を受けるが、それでは、なぜ遺骨の金歯を換金したら悪いのだろうか。使用されなくなった金歯を換金するのは合理的だし、もしこれを遺体の損壊というなら、火葬自体が大きな遺体損壊である。

 この嫌悪感は、直観によるものである。一般に、道徳的判断には、直観的なものと熟慮的なものがある。直観的なものは、いわゆる「好き」や「嫌い」が基本なので、妥当な場合もあるが、偏見や差別を助長するような困ったものも含まれる。社会的に問題があるような直観的判断は熟慮的な判断によって修正されるというのが、人間を理性的存在と考える人々の伝統である。ただし、この例の場合は、直観的判断のほうが常識的なようだ。

 この議論で用いられる代表的な材料は、今ではよく知られるようになった「トロッコ問題」である。これは、暴走するトロッコの行く手に5名の作業員がいるが、あなたは分岐器を作動させて、トロッコの進路を変えることができ、変更先なら作業員は1名であるという状況設定で、分岐器を操作するかという問題である。多くの人は、操作に賛同する。なぜならば、死者は5名よりも1名のほうが望ましいからである。ところが、今度は分岐器ではなく、歩道橋の上から、大きなリュックを背負った大男を突き落としてトロッコを止める(あるいは減速させる)ことによって、作業員5名を助けるべきかどうかとなると、とたんにすべきではないという回答が増える。どちらも1名の死者で5名が助かるとうい結果なのだが、分岐器の作動に比べて、「突き落とす」という行為に直観的に抵抗を感ずるからである。

 犠牲者は5名よりは1名のほうが良いとする判断は、功利主義によるものである。ベンサムによって考案されたこの概念は、曲解されて批判も多いが、根幹は最大多数の最大幸福であって、原則として守られるべきだろう。一方、突き落とす場合の直観的な抵抗感は、突き落とした場合の1名の犠牲者に対する哀れみやその罪悪感によるものであろう(行為の直接性が重要という見解もある)。実際、直観的判断の場合は、脳内において、前頭前野腹内側部(VMPFC)経由で扁桃体に神経伝達が行われ、強い感情と直結していると考えられている。これを、熟慮的な功利主義で修正しようとしても難しい。

 おそらく、金歯が欲しいと言った叔父への嫌悪も、この扁桃体に由来しているであろう。不要な金歯は金にしたほうがよいという功利主義はこの場合には機能しなかったのだ。ジョナサン・ハイトは、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の中で、直観的な道徳判断には、ケア、公正、忠誠、権威、神聖という成分があると指摘しているが、叔父の言動はこの「神聖」に触れるのかもしれない。遺骸から貴金属を抜き取るのは死者を冒涜しているような気持になる。あるいは、彼の、自分だけが得したい目的が浅ましかったのだろうか。それならば、「公正」を冒すことになる。では、もし金歯を換金する目的が、たとえば、アフリカの貧しい子どもたちのためにというものだったら直観的な嫌悪を感じなかっただろうか。これなら、功利主義が直観に邪魔されなかったかもしれない。

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