2017年12月24日日曜日

「昔はよかった」のか? ―標準社会科学モデルと日本の美しき伝統への疑義


 現代は豊かになったにもかかわらずモラルが失われてしまったという言説は、メディア等で頻繁に見かける。しかし、実は、最近のさまざまな調査や統計資料から、日本においても世界規模でも、暴力や犯罪、差別等が減少しているという事実が明らかになっている。特に、暴力や戦闘行為などによる死亡率については、ディリーとウイルソンによる『人が人を殺すとき』やスティーヴン・ピンカーによる『暴力の人類史』において、時代が新しくなるにつれて大きく下がっていることが示されている。この現象は、先史時代から現代、中世から近世、あるいは第二次世界大戦後から現代という、いずれのスパンにおいても観察されている。

 それでは、日本におけるモラルはどうなのだろうか。最近、道徳的推理や利他性の比較文化研究を始めようかなと思っていて、犯罪統計等以外にこのことを示す何かデータはないかと探していたら、大倉幸宏氏の『昔はよかったと言うけれど―戦前のマナー・モラルから考える』(2013)という興味深い書籍が見つかった。大倉氏は、駅や公共交通機関内、あるいは公共の場所などにおけるモラル、職業人としてのモラル、親や子どもに対する家族内でのモラルについて、ジャーナリストらしく、第二次世界大戦前の新聞記事などを挙げながら、今よりもこれらのモラルがひどかったのではないかと推察している。このような証拠と、犯罪などのビッグデータとを組み合わせていけば、過去とのさまざまな比較が可能になるだろう。

 モラルは昔のほうがひどかったというと、右派・左派双方からの批判を食らいやすい。左派が信奉するのは、標準社会科学モデルである。これは、生まれたときの人間の精神は、白版あるいはタブラ・ラサの状態であり、そこに経験によってさまざまな知識等が書き込まれていくとする考え方をベースにしている。ここからは、人間は生まれつき平等であるという主張が可能であり、その意味で左派だけではなく多くの人に好まれるのは分かるし、この主張がルソーの思想等と結びついて、旧体制の打破に役立ったことは十分に評価すべきであろう。しかし、彼らの中には、もう一歩踏み込んで性善説と結びつけて、「人間は生まれたときは清らかな善なる存在だが、悪に染まるのは経験によってである」と主張したり、「太古、人間は善であり、争いはなかった。しかし、武器や貨幣を発明して、人間は貪欲かつ暴力的になった」と主張したりする人々もいる。後者の主張は、「高貴な野蛮人」として知られている。太古の人々も暴力的だったというと、彼らからは性悪論者として批判される。

 一方、右派の主張は、日本国内に限った道徳心の低下についてのものである。彼らによれば、古来、日本には美しい伝統と称えるべきモラルがあったが、それが、明治維新後、あるいは第二次世界大戦後、欧米の価値観が入ってきて、また欧米流の競争社会と物質的な豊かさの中で、そのような美しき日本が失われてしまったというものである。昔の日本人のモラルが特に高いわけではないというと、彼らからは国賊扱いされる。

 モラルは、多分に文化相対的であり、その時代の、あるいはその国の道徳的基準があるので、一概に、上がったとか下がったとかいえるものではないかもしれない。しかし、右派とか左派とかというイデオロギーに支配されて、「昔の人類が暴力的であるはずがない」とか「昔の日本人のモラルが低いわけはない」という思い込みで人間を捉えていては、人間理解はストップしたままになり、人文科学の発展は期待できないことになるだろう。

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