2025年7月12日土曜日

『万物の黎明』を読む(2)―「不平等の起源」という想定の問題点

  大著である『万物の黎明』では、ホッブス対ルソーという対立を超えることが試みられているが、暴力だけではなく、不平等についても議論されている。ホッブス派は、不平等についてはあまり言及がないが、順位制を保った社会的哺乳類として進化した人類は、強固な不平等から始まって、文明化あるいは啓蒙によって平等という概念・社会が確立されたと、漠然と想定されている。一方、ルソー派によれば、人類は小集団のうちは平等だったが、農耕によって一集団当たりの人口が増え、食糧の余剰が神官や戦士、官僚などの非生産階層を支え、それによる階級化で不平等が生じてきたことになる。著者のグレーバーとウェングローは、ホッブス派に賛成しているというわけではないが、本書では、主としてこのルソー派の見解についての批判が行われる。彼らによれば、そもそも「不平等の起源」を求めようとするアプローチは意味をなさない。原始共産主義のような、太古に平等な社会があったという想定自体がおかしいのだ。

 彼らが提起した論点は3つある。第1は、生産の増大で人口が増えても、必ずしも集団が巨大化しなかったという点である。不平等は、巨大化とそれに必要な組織化の結果とされるので、人口の増大は必然的に不平等を生み出したわけではないということだ。彼らは、考古学的・人類学的証拠から、集団がむしろ閉塞化したケースが多いことを報告している。

 第2は、豪奢な副葬品や、神殿などを含む都市の遺構など、階層性や不平等の証拠と考えられてきた遺物が、必ずしも恒久的な不平等の証拠ではないという点である。たとえば、メソポタミアやインダスなどの初期の都市では、平等主義的な制度が維持されていた例が多いと推定されている。さらに彼らによれば、先史時代の狩猟採集社会や初期農耕社会において、季節ごとに平等・不平等についての社会的な仕組みが入れ替わることがあったようだ。つまり、ある季節には平等主義的な生活があっても、別の季節には首長や支配者が登場するような制度に移行するというわけである。副葬品の豪華さは不平等の証拠として考えられやすいが、一定の季節だけあるいは儀礼のときだけの身分差の現れであるとも推定されている。ましてや、それらが高位の世襲化の結果であるという結論を導くことはできない。

 第3は、これまで人類学者等以外にあまり知られていなかった、とくに北米先住民などの研究からの知見である。つまり、それらの文化では、農業革命が余剰生産物とそれによる貧富の差を生み、大規模な権力格差にむすびつくというこれまで考えられてきた法則に合わないことが起きていたわけである。たとえば、16世紀のフロリダのカルーサである。彼らは非農耕民であるが、かなり権力が集中していた首領がいた。また、17世紀にウェンダット族の首長であったカンディアロンクは、フランスからの移民たちに対して行った発言が記録に残っているが、フランスの自由のなさを批判している。ウェンダットによれば、貧富の差はあっても、それが権力格差に結びつかず、彼は自分たちの自由を高く評価していた。つまり、富イコール権力ではない文化が存在するというわけだ。北米の先住民たちは、しばしば「高貴な野蛮人」の代表のように思われていたが、決して愚かな民ではない。

 グレーバーとウェングローによれば、文明の進展に伴う不平等の拡大は、自然な進行ではなく、特定の歴史的条件や人々による選択の結果である。人間は自由と平等を選択する能力を持つ存在であり、私たちが想像するよりも、社会制度をはるかに創造的に構築してきたと強調している

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