2025年6月29日日曜日

『万物の黎明』を読む(1)―ホッブス対ルソーという対立を超えて

  故デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウによる『万物の黎明』は、帯に「人類史を根本からくつがえす」と書かれており、非常に楽しみにして読んだ。これは日本語訳で本文600ページに及ぶ内容たっぷりの大著で、まだまだ消化不良なのだが、私自身の忘備録として紹介してみたい。

 第一の、そして本書の最も大きなテーマは、平等で無垢な人類が文明の発展とともに不平等で暴力的になっていったとするルソー的視座と万人の万人に対する闘争の中から文明によって人々が啓蒙されたとするホッブス的視座の対立を、どちらも正しくないと批判して、対立を乗り越えようとする試みにある。私自身は、太古は争いがなかったとする言説には誤りが多く、文明によって人類の知性も向上し、それが暴力的衝動を抑制できるようになったというホッブス的視座に依拠した書籍やチャプターをいくつか書いているので、どういうことだろうと興味深かった。本書の論の進め方として、両者の立場をいくぶん誇張している点があり、私にはそれが藁人形論法のようだという印象もあったが、本書には、人類学者や考古学者以外にあまり知られていない、北米先住民の記録、最終氷河期末期や農業革命および都市の発展などの新しい発見について、かなり詳細に取り上げられており、この情報量に圧倒されてしまった。

 まず著者たちが示したのは、狩猟採集社会から農耕社会、都市産業社会へと線形的な発展を遂げたとする人類史モデルへの疑義である。このモデルの中で、ルソー派はこの発展によって平等が崩壊して争いが増したとし、ホッブス派は文明的発展によって争いが少なくなったとしている。しかし実際には、社会構造は非常に多様であり、とくに狩猟採集社会は、単一の形態に収まるものではなく、季節的に異なる社会形態を持っていたりして、単純に、闘争状態だとか、平等で平和だとか断定できない証拠が数多く挙げられている。たとえば、狩猟採集社会を描くために、人類学的な現代の事例からお好みの対象が選ばれるときに、ルソー派には比較的平等主義的なハッザ族やクン族が、ホッブス派には好戦的とされるヤノマミ族が好まれるようである。要するに、ルソーやホッブスがいう「自然状態」とは、実際には存在しない仮想的な概念であり、歴史的証拠ではなく思弁的想定に基づくものというわけだ。

 また、ルソー派もホッブス派も、狩猟採集民は「愚かな民」という想定をしている。前者は、愚かで争うことさえしない「高貴な野蛮人」という想定であり、後者は、愚かで私欲のための争いばかり繰り広げているという想定である。これは明らかな間違いであり、狩猟採集で未開とされてきた、多くの歴史的証拠、とくに北米や南米の先住民資料によって覆されている。

 このように、本書は、人間社会の多様性を再認識し、ルソー的・ホッブズ的な単純化を超える視点を提案して、歴史観の再構築を試みるものである。

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